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「箸の持てない男(汚ショートショート)」

「私の彼氏、箸が上手に持てないんだよね。」
自分が出した回答で飲み会の空気が一変した。

ものの数秒前は、各々の恋人や好意を寄せている異性の好きな所や嫌いな所を言いたい放題言い合って、血気盛んな20代の集まりとして実に模範的なテーマで盛り上がりを見せていたのにも関わらずにだ。
その回答権が自分にも回って来るところまでは良かったのだが、私の返答は皆が求めていたモノとは大きくずれていたらしい。

理由は何となく察しがつく。とある者は恋人の浮気癖を嘆いていたり、とある者は通勤中に頻繁に顔を合わせる隣のビルの会社員に恋をしていたり、皆の好奇心をくすぐる様な回答が続いていた中で私の出した回答は、悩みとしては小さく、ボケとしては弱過ぎる、いわゆるスカした回答になってしまっていたのだろう。

センス系のネタで勝負する芸人が出す大喜利の答えのようにその場の空気をわし掴む様な力強さはなく完全に空気は淀み盛り下がっている。

きっとオーディエンスは私の口からもっと生々しく下世話な不満を聞きたかったのだろう。
普段真面目で温和な性格な私の口からどんな爆弾が出てくるのかにワクワクして、心の中では不倫ネタに群がる週刊誌の記者のごとくペンとメモ帳を握りしめ前のめりになっていたに違いない。

にもかかわらず、私の口から出た下世話でも無ければ、お茶らけた訳でもない犬も食べない様な辺鄙な回答に記者達は拍子抜けをしたような顔をぶら下げている。

当然、話が広げられる事もなく、まるで無かった事のように回答権は次の方に移っていった。

幸い、次の回答者が友達の彼氏と不埒な関係にあるという記者達がヨダレを垂らして喜ぶようなピンキーな話題を提供してくれた事もあり、飲み会は本来あるべき汚れた定位置に軌道修正していった。

熱狂のまま走り抜けた飲み会は勢いそのままに二次会のカラオケに流れる事になっていたのだが、盛り上がりに乗り遅れた私には二次会へのお誘いはなかった。
そもそも、一次会で帰る予定だったので別にそれは良かったのだが、何だかモヤモヤする繊細な自分もいたりする。

歯痒さを感じながらの帰り道、あの時自分が出した回答をもう一度振り返ってみる。

確かに話の流れを遮ってしまったのは事実だが実際問題、今の彼氏にそれ以外の不満を感じたことは全くない。
ただ唯一にして最大の欠点が「箸を上手に持てない事」というだけなのだ。

しかしながら、この欠点は私にとっては深刻な悩みでもあり、彼を捉える時にいちいち疑問を浮かばせている。

「彼は時間管理が完璧で一度だって遅刻したりした事はない。なのに何で箸が上手に持てないのだろう。」

「連絡もマメだし、家事もきっちりこなしてくれる。なのに何で箸が上手に持てないのだろう。」

「あんなに情熱的なキスをして、あんなに丁寧な愛撫をしてくれる。なのに何で箸が上手に持てないのだろう。」

たった一つの欠点なのだが、それがあるだけで色々な事柄が疑問を通り越して得体の知れない恐怖に変えてしまう時がある。

育ちの悪さが問題なのかと思った事もあったけれど、彼氏の両親は2人とも現役で教職に就いており、一度お食事をさせてもらった時も、立場も関係なく常に敬語で丁寧に話しかけてくれたし、かと言って話が固くなり過ぎる訳でもなく、とても温和な空気を醸し出していた。私たちの関係や将来の事も肯定的に捉えてくれて本当に嬉しかった。

そんな中、当の彼氏は、両親が息子の小さい頃のエピソードや自慢話をしてくれている間にも奇妙な箸のな持ち方でご飯を食べ進めている。ご両親も見慣れた景色なのだからか何も無かったかのように微笑みながら話を続けてる。

私以外誰も違和感を持っておらず、まるで私にしか彼氏が見えていないのかのように異様な空間がそこには出来上がっていた。

彼の箸の持ち方には付き合った当初から気にはなっていた。ただ、恋愛経験も乏しく人付き合いも苦手な私にはそれを指摘する度胸も無かったし、彼氏は彼氏で指摘する隙もないほどの圧倒的な包容力で私を包み込んでくれていた。
別に自分が迷惑を受けているわけでも無ければ、他に不満もない。
むしろ、これを指摘する事で関係がギクシャクしてしまうのではないかと思うと見て見ぬふりをする事にしか出来なかった。

世の中、気づかぬふりをする事で平和が保たれている事なんて山ほどある。恋愛弱者の私にとってはそれが一番の選択だと思い込んでいた。

付き合って3年が経ち、お互いが結婚を意識する様になった。もちろん、子供も欲しい。
そうなると少し話が変わってくる、いざ、子供ができた時に箸が上手に持てない父親を見て子供はどう思うだろうか?

「パパに遊んでばっかり宿題やれって言われた、パパは箸も上手に持てないのになんであんなに偉そうなの?」

「⚪︎⚪︎のパパは箸も上手に持てないんだ!って友達にバカにされた。」

「⚪︎⚪︎君は非常に優秀な生徒ですし志望校にも十分に受かる学力を身につけています。ただ唯一の懸念としては彼の箸の持ち方なんですが・・・。」

駄目だ。どの未来も悲し過ぎる。彼の名誉の為にもこんな事があってはならない。
あんなに優しく素敵な紳士の彼が、「箸を上手に持てない」だけでこんなに否定されて良いわけがない。

覚悟を決めよう。次のデートの時に彼氏に直接聞いてみよう。私はふつふつと燃え上がる得体の知れない勇気を握りしめていた。

しかし、いざ当日となるとなかなか切り出すタイミングが難しい。
普段と変わらず5分前には集合場所にいる彼氏、当然の様に車道側を歩いてくれる彼氏、私の話を微笑みながら同じ熱量で聞いてくれる彼氏、今日も今日とて隙がない。
ただ彼氏が善意を向けるたびに私の心の中では「それなのになんで箸が上手に持てないのだろう」という疑問がドンドンと膨らんでいく。

モヤモヤとした気持ちが続く中、千載一遇のチャンスが訪れる。ランチタイムだ。
ここしかない!彼が奇妙な箸の持ち方をした所を現行犯で抑える。ここを逃したら次のチャンスはないだろう。
メニューを眺め品定めする彼氏を万引きGメンの如く鋭い眼光で睨みつける。
張り込みされてる事も気づかずに子供の様にキラキラした目でメニューを眺める彼氏。

「呑気なもんだ。これが最後のご飯になるとは思いもしらないだろうにな。精精シャバの空気を今のうちに楽しんでおけよ」心の私は既に正気ではなかったのかも知れない。罪のない優しい彼氏を塀にぶち込もうとしているのだから。
でも、ここまで来たら引っ込みつかない。今日、私はこのモヤモヤから解放されるのだ。

「決めた!」

彼の一声がハブとマングースの様な威圧感のままに続いた不毛な睨み合いに終止符を打つ。

「俺、この特製ナポリタンにするわ。」

しばらく間をおいて私は心の中でこう叫ぶ。
「箸使わないんかい!!!!!!!」

あまりに呆気に取られた私はこの後の事はあまり覚えていない。
ただ一つ覚えているのは、運ばれてきたナポリタンをフォークとスプーンを器用に使い音も立てずに優雅に食す彼の姿だった。

ランチタイムを終えた後はお決まりごとの様にスムーズな足取りでホテルに向かい愛を確かめあった。

いつもなら、彼の丁寧な愛撫と官能的な腰使いで身も心も満たされるはずだった。
あまりにも揺るがない大きな愛を受けると昼間の自分の邪な気持ちがとても醜いものに思えてきた。「箸が上手に持てない」ただそれだけの事で大切な人をここまで懐疑的な目で見ないといけなかったのだろうか。

気づくと私は泣き出していた。
愛する人の突然の涙に慌てふためく彼氏。
「どうしたの?俺、何か気に触る事してしまったかな?」
「ううん、何にもされてない。」
「だったら何で泣いてるの?」
「何でもないの。本当に何でもないから」
「それなら良いんだけど。君はいつもあまり感情を前に出さないから時々不安になる時がある。何かを言言いたい事を我慢してるのであれば遠慮せずに言って欲しい。君のためならどんな事でも受け止めるから」

彼の真正面からの愛情と正義感からは逃れる事が出来なかった。ここで打ち明けないと私達の関係は死んでしまう。直感的にそう悟った私はついに口を開く事にした。

「・・・箸の持ち方変わってるよね?」
「え、なんて?」
「前からずっと気になってたの。箸の持ち方おかしいなって。だからどうって訳じゃないんだけど。他の事は完璧にこなせるあなたが箸の持ち方があんなに可笑しいのは何で何だろうってずっと気になってたの。」

彼は口を開けたまましばらく黙り込んでいた。恐らく想定の斜め上をいく指摘を受けて頭がショートしてしまったのだろう。

ゆっくりと呼吸を置いて彼が話し出す。

「その方が食べやすいからかな。」
「え?」
「いやちゃんと正しい箸の持ち方も出来るんだけど、どうもしっくりこなくてね。今の持ち方の方がスムーズに食べれるからさ。」
「それだけ?」
「うん。せっかく美味しいモノ食べるんだからストレスなく食べたいじゃない?」
「はぁ。」
「でも君が涙流すほど気になってるなら今日から直すよ。嫌な思いさせてごめん。」
「いや!やめないで!」
「え!?」
「今まで通りで良い!」
「でも君はあんなに泣いてたじゃない?」
「あの涙は違うの。こんなに素直で素敵なアナタの事を疑う様な目で見てる自身の醜さで泣いてたの。」
「なんで?なんで僕が変な箸の持ち方をすると君が醜くなるの?」
「そうじゃないの、とにかくアナタはそのままでいいの!勝手な事言ってごめんなさい!」

また沈黙が流れる。少し間を置いて彼が言う。

「こんなに声を張り上げる君は初めてみたよ。わかった。今まで通り食べるよ。」
「ありがとう。」
「ごはんの話をしたら何だか熱くなってきちゃったな。三代欲求ってみな血が繋がってるのかも知れないな」

彼の手のひらが私の身体を包む。理屈はわからないがそれが彼の優しさだというのは簡単に理解が出来る。彼の鼓動がすんなりと私にの中に収まっていく。箸が上手に持てない男は今日も私を一粒残す事なく噛み締めてくれている。

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