シュタイナー/第一次世界大戦の中で
ドイツのウィルヘルム2世はオーストリアを後押しするかたちで、大戦に参加した。
この後…1919年に戦時下、ドイツ帝国はミュンヘンを中心に社会主義化が始まる。
ウィルヘルム2世はその年にオランダに亡命。彼は終の棲家としてベルギー出身のヘムストラ男爵邸と定めた。
このヘムストラ男爵の孫娘が、『ローマの休日』でハリウッドデビューするオードリー・ヘプバーンである。
彼女の母サラが男爵の娘だった。
戦中、神智学協会ベルリン支部のシュタイナーはドイツ軍参謀本部のモルトケと面会している。
『いったいヨーロッパで何が起こっているのか?』
モルトケ…この場合は小モルトケ。
司馬遼󠄁太郎の『坂の上の雲』に出てくるメッケルの師がモルトケの父親、大モルトケとなる。
大戦下
シュタイナーは軍部との会談に臨んだ。
モルトケの婦人がシュタイナーのサロンで彼の話に常日頃から深い関心を抱いていた。
ドイツに関しては西側ヨーロッパの通説…軍事国家…という捉え方はどうも安易すぎるのだ…。
このモルトケ将軍との面会はドイツ各地で話題になった。
ドイツ神意学協会はこのことを巡って、ついに分裂する。
十年前にアニー・ベサントは
『私たちイギリスの神智学協会はインドの解放を進めることご主たる目的だった。すでにそれは達成されつつある。
しかし、ベルリン支部の目的はいったい何なのかしら?』
この謎めいたひとことは、
まるでこの後に起こる、
2つの大戦を予言しているようにも見える。
この当時、ヨーロッパはまさに、モーパッサンやフローベールの自然主義文学さながらの『無神論』に覆われていた。
ここでフランスの南西、
オーストリア圏に於いて
1900年、ジグムンド・フロイドが紆余曲折の後に辿り着いた、
・無意識
が『夢判断』(原題はトラウム・トリッペ夢分析)を完成させている。
彼は心理学、精神分析学の世界ではあまりにも有名なブロイラーとともにヒステリーの研究をしていた。
この夢の分析は明らかにシャーロック・ホームズの探偵小説みたいなところがある。
例えば、定型夢の読み方に
1…鏡を女性器
2…石を男性器
こう読み解いていく。
これを肉体関係だと読み解く。
ところが、状況や時代が異ると、この定型夢も異る。
ブロイラー門下ではもう一人、
カール・グスタフ・ユング。
このユングの学生時代の論文に心霊現象を扱ったものがある。
ユングをコンパクトに評伝して書籍は、コリン・ウィルソンの『ユング・地下の大王』だろう。そこに詳しく書いてあるので
ユングの特に考古学と夢に関する書籍は膨大にある。
彼はグノーシズムと夢の関係に着目していた。
ここから元型論が出てくる。
グノーシズムに出てくる『生命の樹』はタロットの動きとなる。
さらに一歩、入り込んで、
人間のチャクラをグルジェフの水素工場の数値で表記していく。
このグルジェフの水素の読み方も昭和には誰もわからなかったという。
フロイドの著作集は膨大にある。
彼は『夢判断』を発表するとまもなく、
無意識とリビドー(性的)との間に抑圧の関係だけが作用しているのではない…という難問にぶち当たる。
フロイドの無意識の発見は、後に心理学の無数の派閥を産み出す。
彼の娘、アンナ・フロイド、メラニー・クラインの児童心理学・発達心理学。
アメリカ、シカゴ大学のコフートのナルチシズム論、それから、フランス構造主義のジャック・ラカン。
このラカンは日本語訳がでた当時、ほとんど理解不能だった。
ラカンの『鏡像的自我』は学校ではよく説明されているが…。
果たして、シェーマLについては?
いはゆる欲望のグラフである。
一方で、ユングは第二次大戦後、
スイスのバーゼルでユラノス会議を開く。
ここで『空飛ぶ円盤』という難解な書物を刊行。
かたや、フロイド博士は第一次世界大戦でドイツのウィルヘルム2世がオランダに亡命した後、ナチスが台頭し、
オーストリアからロンドンに亡命して、その地で客死している。
日本ではフロイドは大正時代、中村古峡という教育学者が論じている。
かたや、ユングは(じつは京都大学の河合隼雄)。
ユングの元型論は西欧人の心理を、
ところが、河合隼雄博士(?)によると日本人の無意識と西洋人の無意識は逆転しているという。
今日…ドイツのかつての首相だったアンゲラ・メルケルがサミットで見せていた『アンニュイな』顔つきは、たぶん、ドイツがフランスとロシアの間にある…という地政学的な苦悩から来ているのではないか…と思う。
ドイツは外交のカードをいかにしてきるか?
これしか国を守る方法がなかったのだ。
ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ
ベルリンの壁崩壊以前の旧西ドイツとも異質な東ドイツの冷戦期の流れ。
ロシアのオイル、天然資源はパイプラインでドイツ、デンマーク、トルコを経由して西ヨーロッパに運ばれる。
いはば西ヨーロッパの緩衝地帯『バッファ』ゾーンとしてのドイツの苦悩がある。
この地政学的な条件がビスマルク外交を生んだ。
ところが、彼の退任後、いかにドイツの外交が困難なものかを誰も知らされていなかったのだ。
モルトケ將軍とシュタイナー
モルトケ将軍との対談は、当時の戦争推進派だったジャーナリスト、
デートリッヒ・エッカルトとのあからさまな対立となった。
戦中から戦後…ワイマールリファレンダムの時期にシュタイナーは躍進するが、それと歩調を合わせるように、異端(ここではそうしておく)のトゥーレ協会との対立が始まる。
トゥーレ協会と
インディージョーンズ博士
このトゥーレ協会そのものが、
インディー・ジョーンズの映画『失われたアーク』に出てくるナチスのオカルト部門の原型だったともいう。
1919年
アドルフ・ヒットラーはこの年の冬から翌年にかけて、突如、出現する。
トゥーレ協会のデートリッヒ・エッカルトはヒットラーを見込んでいた。
これは、『魔術師たちの朝』という本に書いてある。
やがて、ヒットラーの教育係にエジプト出身の
魔術師見習いルドルフ・ヘスが就任する。
彼は1919年にトゥーレ協会に入っている。
後のドイツ、西方電撃戦を提唱したのはこのヘスだったとも言われている。
このトゥーレ協会の名前は
フリーメイソン本にもちょこっと載っていると思う。
トゥーレ協会は、恐らくはスティリコ将軍をぶち破った西ゴート族のアラリックに憧れていたのだろう。
シュタイナーによると、
西のシンジケートがオーストリア公国をなきものとせんと、陰謀をめぐらしていた…わけである。
ゲルマン信仰の始まり…。
だが、デートリッヒ・エッカルトはとても研究熱心なファシストで、
鉤十字もちゃんと発見していた。
ただ、あまり勉強するタイプではなかったのかも知れない。
もともとヒットラーの文章は硬質で、そこにヘスの考えるアーリア至上主義が混ぜ込んである…。
『我が闘争』は日本語訳を読んでみればわかるが、殺風景な本であることは保証する。
『アンネの日記』と比較してみたらわかるが…
ありえないことに、連合軍のノルマンディー上陸作戦や兵站線に異常に詳しく書いてある。
その文章力たるや、トルストイの『戦争と平和』のレベルだ。
かたや、『我が闘争』は西ドイツでは発禁本だったにもかかわらず、文章が子供っぽい。
全体的に殺風景な本であることは否定できない。
ヒットラーはもともと、建築学を志していたオーストリアの青年だった。
画家とされているがたぶん資料によると建築家だ。
戦後、ハリウッドはヒットラーを悪役に描くことに情熱を傾けた。
建築の場合は風景や建物の精密画を描く。たぶん、その練習だろう。
彼の10代の頃の親友の話からすると、本来の彼と独裁者の彼とではやや人格が異なっていたみたいだ。
1945年の3月、ベルリンがソ連のジューコフ将軍によって陥落した当時、彼はUボートでアルゼンチン、南極に逃れたと伝説にされている。
シカール帝国という超古代文明とコンタクトしていたらしい。
ヒットラーを最も恐れたのは、
アメリカのフランクリン・ルーズベルトではなく、スターリンだった。
ちなみに、エヴァ・ブラウンの日記というのが、戦争直後、チロルで発見されている。
大戦の資料を読み込まなければ、全く何が書いてあるのかわからない本なんですが、わかると、仰天の内容。
そこには、彼とシカールとの対面のシーンとおぼしき光景が書いてある。
シュタイナーはトゥーレとの対立の後に、死去する。
つまり、彼の人智学(彼は肉体、エーテル体、アストラル体の3つを中心に考えていた)は唯物論であってひならない。
超常現象であってはならない。
こう終始一貫していた。
ソニー・ロリンズ
日本でシュタイナーの名前があがったのは、『モモを読む』という書籍でかなりメジャーになっていたころ。
このエンデ(シュタイナーのランドルフ学校)…はもともと『三文オペラ』のブレヒトの劇団員だった。
ジャズが好きな方なら、ソニー・ロリンズの『モリタート』という演奏をご存知だろうが…あれは、クルト・ワイル作曲の映画音楽らしい。
これは知らなかった。
諸口誠、一柳慧のFM番組でワイルの名前は聞いたことがあるけど
さて、このエンデの『モモ』『ネバーエンディングストーリー』のテーマそのものが、シュタイナーの問題としていた『唯物論』となる。
ブレヒトとは対照的。また、ドイツの『緑の党』という当時では珍しい政党も存在していた。
今日ではドイツ議会の議席を相当増やしているメジャー政党ですが。
ベルリンの壁崩壊以前には考えられなかった。
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