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ミュージカルファンレターを見た

 ミュージカルファンレターを見ました。日本統治時代の朝鮮で、朝鮮語で書かれたものを守ろうとした人々の話でした。

 大変個人的な話になるのですが、私は大学で西洋史を勉強し、卒論では長らくドイツ人の支配下にあったチェコの人々のアイデンティティ形成について書きました。チェコ語の存在が危ぶまれるなかでチェコのアイデンティティを守ろうとする運動を「民族再生運動」と呼ぶ先行研究と、「国民形成」と呼ぶ先行研究を比較しました。そして、近代的な概念(ここでは「国」や「国民」、周辺の文化圏を含んだ「スラヴ民族」としての連帯など)を後世の人々がまるで昔から存在した概念かのように箔付けに使うことを批判したりしました。

 虐げられた人たちのナショナリズムを一部批判はしたものの、一方で支配され自分たちの土地や言語やアイデンティティがなくなっていく切実さを感じ、(ドイツがチェコを支配下に置き始めたのは欧米列強が植民地を拡大していたのよりだいぶ前ですが)帝国主義や植民地主義は滅べ、と思うようになりました。現代の世界情勢にもそれらは確かに残っていて、日本にも大いに"虐げた側根性"が残っていることにはっきりと気づきました。

 そんな中で見たこの作品は、もうしょっちゅうセリフを聞き逃すほどあれこれと思考が飛んでいきました。日本の加害性や朝鮮語、朝鮮文学がなくなる危機感が細部まで盛り込まれ、それらをキャッチすればするほど卒論の参考文献やパレスチナ絡みで読んだニュース記事に頭が飛んでいってしまいました。

 作品としてはとても素敵で、小劇場のような静謐な演出や効果的(でもちょっと眩しくてしんどかった笑)なライティング、大きな転換はないけど彼らの過ごした時間を感じられる新聞社のセット全てが印象的でした。また、しっとりと、弱いけれどはっきり聞こえるボリュームで語るように歌われる歌の数々が素敵でした。

 ハッとさせられるセリフの数々、たとえば「紙で切った傷の方が気をつけた方がいい」とかもよかったです。ただ、すごく素敵な言葉だけどこれは彼らの守ろうとしたものの上から墨を塗りつけるような存在だった日本語に翻訳されたものなんだな…と思うと、ハッとしたセリフが手からこぼれ落ちてしまいました。翻訳される前のニュアンスを拾ってみたい。英米からの輸入ミュージカルはよく日本語版を観た後にサントラを聴いて「こんな感じのニュアンスなんだ!」と楽しんだりもするのですが、ハングルは未知すぎて、こんな私が見てていいんだろうかと思いました。もしかしたら視覚効果も、セリフのことがわからないとその意味も全て掴みきれてないのかもしれないですよね。

 墨のような日本語の侵食がなければ、セフンは孤独な学生時代を送らなくて済んだし、ヘジンもヒカルに出会うまでは誰にもわかってもらえないつらさを抱え込まなくて済んだ、出会ってしまったヒカルにあんなにのめり込まなくて済んだはずだと思いました。なんだかこれは、日本ではうっかり美化されてしまいやしないかとも思いました。災害に対処する中で生まれた絆や感動エピソードのような消費のされ方をしたらどうしようと思いました。

 また、映画「バービー」を観た時、すごくエンパワメントされたけどわたしはバービーではなくリカちゃんやシルバニアファミリーと幼少期を過ごしたので掴んでないものがたくさんありそうで、この作品と同じ文化圏のルーツがなくてちょっと残念だなと思ったのを思い出しました。

 海宝直人さんがパンフレットのインタビューで劇中で何度も出てくる「春」という言葉について、「プラハの春」のような意味の春も思いうかぶ、とおっしゃってました。チェコのことを考えていた私はそれを読んで泣いてしまいました。今年「この世界の〜」と今作に出られた海宝さんは、何を感じられたのでしょうか。いろいろとしんどかったんじゃないだろうかと少し思いました。

 あまりにも消化しきれていないので、つらいけれど、また必ず観たいです。

 浦井健治さんのくたびれたお芝居がすごくてびっくりしました。前に見たのがカムフロムアウェイのぶっきらぼうなバス運転手と活発な若い社長だったで。カムフロムアウェイの1作品の中での切り替えだけでなく、そもそも別人のようになる芝居がこんなに上手い方だったのかと驚きました。

 SMOKEは未見なのですが、ラフヘストを見ておいてよかったです。ところで、CROSS ROADでパガニーニを演じたお二人ともイ・サン(イ・ユン)を演じているんですね!

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