阿部詩選手をめぐる報道に思うこと━過剰な泣き顔報道&兄妹セット報道への批判


経緯


 先日、上記のツイートをしました。ここまで伸びるとは思っていなかったので多少言葉は雑ですが、普段私のタイムラインにいらっしゃる、フェミニズムやアイドル消費について真剣に考えていらっしゃる相互フォローさんたちに分かってもらえるだろうなと思った違和感をさらっと書きました。

 この投稿に対して、私が「誹謗中傷を容認している」とか「当該選手の気持ちを決めつけている」とかいう信じられない失礼な絡み、的外れな引用あったので少し噛み砕くことにします。読解力がない奴、初対面の相手にいきなり失礼な言葉をぶつける奴は相手にしなきゃいいのですが、選手への誹謗中傷がはびこるこの状況での「お前がしているのは誹謗中傷だ!」は流石に聞き捨てなりません。

筆者について

 ナショナリズムとミソジニーが嫌いな元フィギュアスケートファンです。フィギュアスケート競技とそれを取り巻く報道への違和感を感じてテレビで競技をあまり見なくなりました。その後、アイスショーでしがらみの少ない選手の演技を見て、もう試合は見れなくてもいい、私はこちらを見にこようと思いました。

 以下の各見出しは私が最初にしたツイートからの引用です。

>選手が試合後に号泣してしまうほどのプレッシャーを背負わされた

彼女の号泣を何度も何度もテレビで見て、なんでこんな辛そうな場面何回も放送するんだろう…と思い、思わず私も泣きそうになりました。感動というよりは、つらくて泣いている人を見て自分も泣きたくなってしまうような、「いどころのなさ」を感じました。この報道に以下のような2つの違和感がありました。

1-①泣き方が痛々しい


 実際泣き方なんて人それぞれです。「絶対勝てると思ってたけどダメだった」「頑張ってきたけど結果に届かず悔しい」そういった思いから泣いている部分ももちろん多分にあるとは思います。

 一方、彼女を取り巻く報道を見ていると、彼女が自覚しているかいないかに関わらず過剰なプレッシャーによる心身の疲弊や、絶対に勝たなければならないという強迫観念のようなものもあったのではないかと感じました。その要因に思い至る節がありすぎるからです。下記のように。

1-①-❶毎度兄とセットで報道されるため、揃って勝って当然のような空気がある

 彼女を取り上げる報道でいちばん違和感が強いのは、毎度必ず兄とセットで報道される点です。兄の結果が良かったら妹の結果も良くなるわけではないし、妹が勝ったら兄が先へ進めるわけでもないのに、なぜかほぼ必ずセットで報道されます。こういった報道は、兄、妹どちらも一個人として認識し尊重する姿勢に欠けすぎていると感じます。

 たとえば、一二三選手の勝利の場面で「お兄ちゃんは強かった!」というアナウンスがありました。東京オリンピックの時のアナウンスのオマージュなのはわかりますが、そもそも一二三選手は詩選手以外にとっては兄ではないのに、わざわざ彼の勝利の場面で「お兄ちゃん」という言葉を使っています。それによって、いやでも妹の結果が思い起こされる当てこすりのような状態になっています。

本来他人の結果は他人に一切関係ないはずなのに、過剰に「妹は勝った!さあ兄はどうだ!」「兄は勝った!さあ妹はどうだ!」というような注目のされ方をすると、精神面に影響する可能性は大きいと思います。

兄弟(兄、姉、弟、妹いずれの構成でも)や双子、親子の選手はエピソードともに取り上げられやすいです。これらは各個人を1人の人間として尊重せず、エピソードの面白さやビュー数を重視する、人を傷つける恐れのある取り上げ方です。

 特に、誰かの妹や娘(立場が下の女性、庇護対象)としてのイメージが先行すると、こういう不利益を被りやすくなると考えられます。女性は過剰に誰かの娘、妹、妻である側面が強調されやすいです。

 各兄弟構成によって陥りやすい外野の見方は異なります。例えば、同性同士の兄弟姉妹は兄妹や姉弟よりもその能力や容姿の美醜を競わされやすくなる傾向があると思います。

1-①-❷そもそも柔道は日本のお家芸であり、日本人が勝って当然という空気がある

 スポーツとナショナリズムは結びつきやすいですが、その度合いや危うさは競技によって異なると考えられます。

 例えば私が以前あまりにもナショナリズム的で気持ち悪いと感じたスポーツ報道の例が、2014年羽生結弦選手と中国代表のハン・ヤン選手の6分間練習での衝突事故です。今でも選手の名前を検索すると「わざと」とという悪質極まりないサジェストが出てきます。柔道以外の競技もナショナリズムとは無縁ではないです。

 ただ、フィギュアスケートは日本一強!というわけではありません。個人個人強い選手が多く、かなりの強豪国ではありますが、やはり柔道となるとわけが違います。アメリカの野球やイングランドのサッカーに近い位置付けと読んで差し支えない、文化的な結びつきを感じやすい競技です。

 現代は自分に合う方法を見つけて鍛錬すればあらゆる国の選手があらゆる競技に強くなれるでしょう。国に強い選手が増えればその選手がアイコンになり、競技人気や教育の機会が厚くなるでしょう。強い個人が集まって「あの国はこの競技に強いよね」となるのはよくあることです。一方、"競技の発祥とされる国"という、現代を生きる選手には直接関係ない要素も優勝への期待やプレッシャーとなります。後者のプレッシャーの重たさは前者とは質が異なると考えられます。

1-①-❸二連覇がかかっている

 そもそも大きな大会で一度優勝するのも難しいのに、二連覇を目指すというのはさらに大変なことです。前回優勝した際の映像や方法が出回り、研究し尽くされているでしょう。ディフェンディングチャンピオンは、様々な対策が練られていふことを考慮しながら、前回の自分を基準に鍛錬をするわけです。

 この状況でディフェンディングチャンピオン本人が「二連覇を目指す!」ということはなんらおかしなことではありません。2回勝ちたいのは当然です。しかし、それに乗じて周りが簡単に「二連覇なるか?」などという言葉を溢れ返させるのは無神経だと思います。本人の「こうしたい」「私ってこうだと思う」といった発言があっても、外野がその発言を盾に振り翳してプレッシャーをかけていい理由にはなりません。自分の目標が外からの期待に変わった時、それは義務感や強迫観念になります。

 あれだけ強く、たくさんの実績を残した吉田沙保里さんが、連覇には届かずも銀メダルという名誉あるメダルを手にした際、号泣しながら「ごめんなさい」と言いました。悔しいだけの言葉のチョイスにしては違和感が残りました。日本中からの期待を背負い、キャッチーな二つ名をつけられ、注目を一身に浴びた選手が惜しくもその目標に辿り着けなかった時、悔しい!ではなく、ごめんなさいと言う歪さが議論し尽くされなかったからこそ、今も選手に過度なプレッシャーをかける報道や観衆の態度が残ったままなのではないかと思わずにはいられません。


 このように、詩選手が泣いたことは「目標に届かなかった悔しさ」だけでなく過剰な「プレッシャー」もあったのではないかと考えられますし、その「プレッシャー」の責任は報道や我々観衆一人ひとりにあるとも言えるはずです。

 ただ「悔しくて泣いてたんだ」「プレッシャーがあったからだ」「日本の代表として一生懸命戦ったからだ」という感想で彼女の涙を受け止めることは、プレッシャーに押しつぶされてしまう選手を生んでしまう可能性すらあります。

 ツイートには「悔しくて泣いてたから擁護されているんだ」「一生懸命戦った選手が泣いていたから擁護したんだ」「プレッシャーがあるから擁護したんだ」などという引用がつきましたが、そんなことは当然です。泣いてしまうのは仕方ない、だから擁護する、と言うのであれば、あの悲痛な泣き方のどこにも報道や観衆の責任がなかったか考える必要があると思います。私のツイートに前述のような引用をするのは的外れと言わざるを得ません。

1-②泣いた時の映像が何度も何度も繰り返し報道される

 痛々しい泣き姿は何度も見たいものではないし、だいたいの人は自分が泣いているところをあまり人に見られたくないでしょう。

 しかし、彼女の泣いている姿は異常なほど何度も報道されました。ものすごく一生懸命柔道を追いかけている視聴者でなければ、彼女がこれまでどのような戦術で戦ってきたか、どのような戦い方が得意なのか、今回対戦した選手とはどんな相性だったのか…といった彼女自身の成果、ウリはひとつも知らないまま「二連覇できず泣いていた子」のイメージで終わりかねない取り上げられていました。

 これを見て、訴えている政策や実績よりもファッションやプライベートやキャッチーな発言のみが特に取り上げられやすい女性政治家を思い出しました。個人の実績や努力の内容、その人自身が仕事として取り組んでいることの内容よりも、「キャラ性」を強調される。先月の都知事選でも見たことです。男女や年齢関係なく起こることではありますが、しばしば女性がその標的にされやすいです。

 泣いている姿が過剰に報道されることも、それによって誹謗中傷から擁護まで様々な声が上がるのも、キャラ性の強調が元凶であり、若い女の子の涙でビュー数を稼ごうとする魂胆をかんじずにはいられません。

>号泣したことに対して「いかがなものか」的な発言をした人がバッシングされる

>号泣した詩選手に同情的なのも「妹キャラの女」だからでしょって感じ

 詩選手が泣いてしまったこと自体は責める人はいないと思いますが、一方で次の試合の開始が遅れたことなど批判もあがりかねない要素はありました。

 悔しければ泣くのは当然ですし、「みっともない」といった強い言葉を使ったり、「承認欲求だろう」といった根拠のないデマや不名誉なレッテル貼りは誹謗中傷であり、しかるべき制裁を受ける必要があります。

 一方で、どのような状況で彼女が泣き、その結果何が起こったのかを振り返らずに、批判も中傷もひっくるめて「泣くなって言うな!」で話を終わりにするのはおかしいと思います。

 彼女が泣いたことを(中傷ではなく)批判する人を押し込めようとする声が上がるのは、男性中心社会で女性がよく遭遇する、「女の子だからわからないよね/できないよね/かわいそうだね」という方面のミソジニーもあるのではないかと考えられます。この仕事が女の子にできないのは仕方ない、この責任が女の子に取れないのは仕方ない。そうやって重要なポストについたり間違えたことを反省、謝罪する機会を奪われることがあります。

 中傷があってはならないことは当然です。一方で、全ての声を「中傷するな!」で押さえつけるのはおかしいし、若い女性が免責を受けるというかたちのミソジニーなどを考慮しないのも議論が十分ではありません。なので、「いかがなものか」という声へのバッシングにはミソジニーもあるのではと指摘しました。すると、この点を中傷の容認だと捉えた人がいるようです。中傷を中傷だと指摘するのは大切なことですが、それなら中傷ではないものを中傷だということの信じがたい暴力性も理解して欲しいものです。

>一二三選手がやたらお兄ちゃんて言われる

>一二三選手の勝利の場面で流れる「お兄ちゃんは強かった!」のアナウンスがセンスなさすぎ そういうとこじゃんか

>兄妹でそろってメダル!なんて言っていいのは本人たちだけのはずなのに余計なプレッシャー背負わせる報道がムリ

 1-①-❶でも書いたような、「兄弟で勝って当たり前という雰囲気」「一個人としてでなく必ず兄とセットの報道」が今回最も如実に現れたのが、一二三選手勝利の場面の「お兄ちゃんは強かった!」です。お兄ちゃん『は』強かった、というのであれば一体誰が強くなかったと言いたいのか。配慮に欠けた無神経な表現です。

 いくら兄の一二三選手が「妹のために頑張ろう」と思っていたとしても、そう発言していたとしても、外野がそれをいいことに過剰に「お兄ちゃんは妹のために頑張った!」「妹は負けたけどお兄ちゃんは勝った!」と強調するのは見ていて気持ちのいいものではありません。2人をセットととらえ、個人を尊重しているとは言い難いです。

>スポーツ報道のダメなところ凝縮

ここまで書いたいくつもの要素を詩選手を取り巻く報道に感じてうんざりしました。これらをイメージ付けやSNS上での人々の意見に多分に影響を及ぼす報道の問題だと捉え、悪いところだらけだとぼやいた言葉です。

>実績を持ってる成人女性をみんなの妹扱いすんな


 詩選手は、前回王者です。実績のある立派な選手です。多くの人が成し遂げられないことを成し遂げた、みんなの尊敬を集めるはずの人です。それなのに、泣き顔ばかりが世の中に溢れている。たった一度、試合に敗れて泣いただけなのに。

 なぜ報道は詩選手のそういった一面をクローズアップするのでしょうか。なぜ実績ある個人としての評価よりも先行してしまったイメージがあるのでしょうか。

 「報道にゴリ押しされた妹キャラ」「センセーショナルな若い女の子が泣いているシーン」「必ず兄とセットの報道」を度外視して、彼女に降りかかったプレッシャーに思いを馳せるのはちょっと難しいのではないかと感じて、こういったツイートをしました。

 これでも私の発言を「誹謗中傷だ」とか、「ミソジニーなんて関係ない。的外れだ。ただ悔しくて泣いただけだ」「詩選手の気持ちを勝手に決めつけるな」とおっしゃるのであれば、勝手におっしゃっていればいいと思います。

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