星組RRR/VIOLETOPIA感想①━宝塚ファンにも映画ファンにも最高のバランスの目配せ
星組RRR/VIOLETOPIAを観劇しました。RRRは事前にこの観劇のための予習として映画を一度観ただけなので、今回の客席にたくさんいるであろう熱量の高い映画ファンの方々に到底敵いませんが、今この作品がここで上演されてよかったと思いました。忘れられない観劇になりそうです。RRRについてだけでだいぶ長くなってしまったのと、VIOLETOPIAについても書きたいことがたくさんあるので、この投稿ではRRRについてのみにしました。
RRRに描かれる、今宝塚に必要なもの
ネット上にあるRRRファンによるレポを読むと、「1時間半に収まっている…!」「あのシーンもあった…!」「後半は駆け足だけど…!」と、概ね好評のようです。素晴らしい構成、シーン取捨選択だったと思います。ただ、RRRとしてはかなり薄味になっていると感じました。宝塚版のみ見た宝塚ファンにこそ、ぜひ映画もみて欲しいです。
個人的に、ラーマとビームの背景を語りラーマとビームが出会った意味を濃くする箇所だと思っていた部分がカットされていました。たとえば、舞台でやるのはどう足掻いても無理なシーンですがビームが故郷の森で虎を捕えるシーン。また、一応あったものの映画ほどのわかりやすさはなかった蛇の毒が回ったラーマを介抱するシーン。これらは、イギリス人にできないことをゴーンド族がやってのける場面として効果的です。
一方、ラーマについては、故郷の村が襲われた時にラーマの父が英語で「装填」「狙え」「撃て」と言っているのが重要です。ここも宝塚版にはありませんでした。
ナショナリズム色の強い映画と思われがちであり、確かにその通りなRRRですが、イギリスvsインドの優劣と勝ち負けに終始しない表現が見られると個人的には思います。たとえば、ナートゥの始まり。ジェイクがサルサ、フラメンコ、タンゴ……とルーツの異なるダンスのジャンルを並べた後、おそらくインド系ではないアフリカ系のドラマーの音頭で曲が始まるところ。そもそも宗主国の文化と植民地とされた国の文化の間に優劣ではなく世界に数多ある異文化のうちのひとつとひとつです。サルサ、フラメンコ、タンゴ(上記3つも白人発祥ではないのがなんとも皮肉ですが)、インドの踊り、アフリカの踊り……。そこに優劣はありません。宗主国の人々にとっては、自分たち白人の文化の下に未開の植民地のやつらの文化があり、インドだろうがアフリカだろうが尊重するに値しないものに映っていますが、そうではありません。ただ、違うものがいっぱいあるというだけ。ラーマがそのことをジェイクに示しているように見えます。
文化に優劣はないはずなのに、「自分たちのほうが優れている」と思い込んでいる外から来た人々に虐げられているのがビームやラーマたちです。ビームとラーマは、現代の映画鑑賞者からみると同じインド人ですが、全く違う発想でスコット提督に近づきます。ビームの目的はあくまで集落の娘を助けるため。当初、「イギリスに立ち向かって支配を終わらせよう」「この国から追い出そう」とはおそらく思っていません。同じ"インド人"が同じようにイギリス人を恨み、倒すことに手を貸してくれるかもしれないという発想にも至りにくいようです。とにかく自分たちの部族の目的を果たすことを考えているため、修理屋の親方やラーマにも決定的な頼り方はしません。パーティの後に総督邸でマッリに再会した際や、シータからラーマの目的を聞いた時などに段階的に白人を憎む"インド人"としての意識が出てくるように見えます。
一方のラーマは、現地人でありながら白人に混ざって軍人をしていた父から、イギリス式に近い戦法をひたすら教え込まれます。そして、イギリス人の中に混ざって働くインド人としての憎しみや悔しさを抱えていきます。
英国の戦い方をもつラーマと、英国の文化より劣っているものや未開なものでは決してないローカルな戦い方をもつビームが手を組むことではじめてインド人vs英国人の構図が出来上がり、目的が達成されるのです。ビームの象徴はより生命の輪廻や自然のイメージに近い水であり、ラーマの象徴は生活を豊かにするものの危険も孕む文明のイメージに近い火です。そんなイメージが逆転してビームがイギリスで始まった産業革命の象徴であるエンジンをもつバイクに乗り、イギリス人のバイクを直していて、ラーマが馬に乗っているというのも面白ポイントだったりします。
このあたりの厚みが宝塚ではわかりにくくなってしまったのが非常にもったいなかったのですが、仕方ないか……という感じでした。
ちなみに、ビームがシータからラーマの目的を聞いた際、ビームから発せられる「森で育ち、無知だった」について。このセリフは宝塚版だと、他のところで何度か使われていたように記憶しています(東京でも見る予定なので確認しようと思います)。原作では、英語を話せないことに引け目を感じたりしているからではなく、自分よりも広いラーマの視点(日本人にわかりやすく例えると、藩を自分の所属する場所だと考えていた幕末のサムライが日本国という概念を初めて身につける、というのに近いと思います)に圧倒されて発されるセリフなのですが、宝塚版の使われ方では部族の文化はラーマたちが身につけた英語や英国の戦い方よりも劣っているとビーム自身が思っているように見えてしまい少々残念でした。
というわけで、宝塚版では映画RRRで表現されるインド土着の文化の強さや西洋の価値観への批判が少々薄まっています。ナショナリズムへの批判や、ナショナリズムに利用されがちな比較的新しい「伝統」への批判はここでは置いておいて、今の宝塚歌劇団にはまさにビームが担う伝統とラーマが担う革新の両方が手を携えて111年目に向かっていくような発想が必要です。伝統を頑なに守っても、無反省に過去を捨てて新しいものばかり取り込んでも今の状況を打開することはできないでしょう。なので、ビームとラーマに優劣がついてしまっているのはもったいなかったです。伝統と革新が手を携えたんだよ、という構図を宝塚110周年幕開け公演が見せてくれていたら、ファンとして少し安心できたような気がするのです。
ただ、パンフレットを読んだ感じ、演出家はラーマとビームが担う伝統と革新、そして両者の共存、協力が不可欠だということを意識しているようでした。結果的に舞台化、シーンカットの限界がここだったというだけだと信じたいです。
蛇足ですが、後世に作られた伝統への批判は置いておいて、と書きましたが、宝塚も立派な「比較的新しい危ない伝統」ではあります。
さらにものすごい余談ですが、野生動物をスコット邸にけしかける場面はカットされたのにビームが街で巨大な肉の塊を運んでいるシーンは残っており、ビームがただの超食いしん坊になってて面白かったです。
宝塚初心者向けの視線誘導
そもそもRRRは映像で表現するにしてもだいぶ無茶なことをやりまくっているので、舞台化しよう!と思うのが正気じゃないはずです。それなのに「舞台化できている」どころか、舞台上での画作りやのセンスがとにかくよかったです。たとえば、ラーマが警察であることがラッチュにバレるシーン。映画ではラーマに警備員が敬礼するだけなのですが、舞台上ではただ敬礼するだけではわかりにくいので「失礼しました!」とセリフをつけたりしています。
1番見事だと思ったのは、街の雑踏のシーンでの視線誘導でした。映画だと、ラーマとビームが親密になりながらお互い使命のために似顔絵を持って街を歩いたり、野生動物のための肉の塊を運んだりしている様子が映されるシーンです。宝塚ファンは「目が足りない」状況に慣れていますし、ある意味それを楽しんでいるようなところがありますが、RRR目当てにやってきた人は絶対にラーマとビームの印象的なシーンを見逃したくないでしょう。
舞台上で、ラーマとビームはあくまで街の雑踏の中にいました。映像のように片方が抜かれることはありませんが、雑踏を使って自然な視線誘導が行われます。例えば、ラーマが似顔絵を持っているときは、ビームは雑踏の中を歩いて舞台中心に置かれたセットの裏に隠れていきます。ラーマだけを見ていて大丈夫なように設計されているのです。今回初めて宝塚のチケットを頑張って取って1回だけ見に来るような人をちゃんと歓迎しているんだなと思えてとても良かったです。
宝塚では、宝塚ファン以外からの人気が高い有名なタイトルがタカラジェンヌとそのファンのための作品に終始してしまうときがときどきあります。最近の例だと宙組カジノロワイヤルがそうだったと感じています。せっかくそのタイトルを選んだのなら外部ファンを喜ばせて欲しい、内輪ネタを多くしすぎるのはやめて欲しいと思ってしまう派なので、今回のRRRの作りは個人的に最高にヒットでした。
ラーマをトップスターにしない発想の大勝利
では、役者や組がRRRをやっているマッチ感は薄かったのか?と言われるとまっっったくそんなことはありませんでした。そもそも星組がRRRをやると決まった時点からRRRをやるなら星組しかないというのがファンの総意と言っても過言ではなかったと思うのですが、それにしても期待以上でした。星組のみんなが本当にナートゥをフルで踊ってくれることも、火や水を見事に踊りで表現していることももちろんですが、なにより礼真琴さんにビームを、暁千星さんにラーマをあてがったのが最高の選択でした。
映画を見て、「このラストシーンを見てしまうと、どう足掻いてもラーマをトップスターにやらせたくなってしまうのでは?」と感じていました。インドの神話の有名な英雄になぞらえられて華々しい凱旋をするラーマはどう見てもトップスターでしたし、どちらかというとジェニーよりシータの方がトップ娘役の仕事っぽいと思いました。
しかし、礼真琴さんによる純朴な青年の慈しみや嘆き、暁千星さんによるラーマのスマートさや激情がこれ以上ないほどマッチしていました。
礼真琴さんは、1789でもそうでしたが、等身大なキャラクターが持つ激しい怒りや嘆きやウブな喜びの表現がものすごく上手な方です。いい意味で宝塚の男役らしさが薄いのが持ち味なので、映画のビームよりだいぶビジュアルが垢抜けてはいたもののものすごくビームでした。礼さんなら、ラーマの大義に初めて気がついた時の表情とかもとても上手にやってくれそうだと思ったため、「俺は森で育ち、無知だった」のシーンが勿体無かったと感じてしまいました。
私は月組のファンなので、星組には暁千星さんと詩ちづるさんを見に行っているようなものなのですが、月組から星組に組み替えして自身の持ち味を大覚醒限界突破オーバードライブさせているありちゃんと、父に厳しく軍人として育てられてきたこれまでの象徴のような軍服を脱いで民族的なビジュアルに大覚醒限界突破オーバードライブして弓で銃に勝つラーマがハイパーヒートオーバーラップしてなんかもうありちゃんが月組からいなくなってマジでマジでマジでさみしかったけど星組きてよかったねえええええ!という感じでした。
宝塚110周年の幕開けやトップスターと2番手のキャラといった内輪ネタと、映画ファンが喜ぶポイントのどちらにもぬかりなく目配せした素晴らしい作戦でした。
だいぶ長くなってしまったのと、ショーについてもかなりたくさん書きたいことがあるので投稿を分けようと思います。