天空の拳 ep4~ep6
潜る
それからフェイロン達は多忙を極めた。やめてしまった生徒も多かったが、二十人ほどは同じ洪家門のソウ(曽) 老師に預けた。また二人の高弟、リー(季)とジァン(姜)はフェイロンと行動を共にすると言ってくれた。
生徒達の処遇もあらかた片付いて、米屋や酒屋等のツケを払ってまわり、最後に残るは武館の開け渡しだけとなった。
三人で地主であるマー(馬)大人の元へ向かう。
応接間に通される。マー大人は猫を抱いて表れた。三人には茶が振る舞われた。
「河北一帯も武館運営が禁止されたとか。皆路頭に迷う事になった。フェイロンよ、ここはどうだね一つ、私のボディーガードをやらないかね。筆頭の扱いだ。悪いようにはしないよ」
「約束があるのです、マー大人。詳しくは言えないのですが一筋の光明を見つけました。それに賭けてみようと思っています」
「河北の勇がこのようなことになるとは残念至極だ。もっと相談してくれたまえよ」
「ありがとうございます、マー大人」
マー大人は河北一帯で商いをしている富豪だ。武館も格安で貸してくれていた。河北での武術家の後ろだてになってきた、頼れる理解者だ。それも今日までだ。
「俺たちは独自の道を歩きます。この十年のお礼は一生忘れません」
フェイロンが頭を下げる。
「そうか、明日への光明があるのか。ならば止めはしない。一層の活躍を祈っているよ」
「長い間お世話になりました」
三人が一斉に頭を下げる。
これにて挨拶をするところすべてを回った。武館に戻り一息つく。
「長かったな、一月かかってしまったな。これから厳しい道が待っている。みんなよくついてきてくれた。感謝する」
フェイロンが頭を下げると、拍手が起きる。
「さあ、明日から新しい船出だ。必要最小限の荷物にまとめて行くんだ」
リーとジァンは家が近いこともあって、通いで来ている。
「それでは俺たちはこのへんで」
「ありがとう。ゆっくりと休むんだぞ」
「はい」
「じゃあ俺たちも出立するか」
「おー!」
天真爛漫なウンランが、笑いながら拳を突き上げる。武館を閉めるといってもさほど悲痛な雰囲気ではない。むしろ新天地での新しい暮らしに希望を見いだしていたのだ。
さかのぼること三週間ほど。
梅花拳の取り締まりに義和門のザンも混じっていたのだが、当局はすんでのところで逃がしてしまっていた。あの日、皆は帰したのであるが、特務機関員を一人だけ残しておいたのだ。それが当たった。酒場へ向かう一行の中にザンとおぼしき者がいたというではないか。
特務の男はしばし泳がせ、ついにザンの邸宅をつきとめた。しかしそこが本部ではないらしい。そこで会議が開かれた。
会議室に集った者は十名ほど。階級も様々な面々が出そろった。主に少尉や中尉である。そこに和田大尉がやってきた。
「起立、礼、着席!」
ピンと空気が張り詰めている。和田は一番の上席に座った。
「まずは一人ずつ活動報告をしたまえ」
「は!まずは私から。活動家のヤンの潜伏先をついに見つけたところであります。これから検挙に行くところであります!」
世田中尉が活動報告をする。空気は冷えたままだ。
「次、八代」
「は!同じく活動家のザォの動きを調査しているところであります。まだ尾行には気付かれていない様子。結果は追って報告いたします!」
「次、中田」
与儀はこれから起きるであろう抗日運動のなかでも一番大きな案件を任されている。
「次、与儀」
「は! 昨今一斉に検挙した梅花門の集会から後一歩のところで取り逃がしたザン・ポーウェンの住みかを見つけました。これから芋づる式に主だった人物の動静を探る所存であります!」
「ご苦労」
全ての活動報告が終わると、和田はやおら立ち上がり口を開いた。
「今手が開いている谷口と山崎は与儀の下につくように。六合拳や白鶴拳、八極拳なども怪しい動きをしている様子。主だった人間が集まったところで一斉に検挙に乗り出す。分かったな」
「は!」
全ての指示を出したところで和田が与儀に迫る。
「ところで与儀よ」
「はい!」
「行くあてのなかった沖縄出身の二等国民であったお前をここまで引き上げてやったのは誰だ?」
「は!和田大尉殿であります!」
場内から少しだけ嘲笑が起きる。
与儀は見えないように、テーブルの下で拳を握る。
「分かっているならよろしい。今回は特別な任務だ。失敗は許されない。上手くやれるな」
「は!万全を期して。私が自ら野に下り調査に乗り出す所存であります!」
「期待してるぞ」
「は!」
拳は握りしめられたままだった。
最小限の着替えを持ち、郊外にある「泰定酒家」という居酒屋兼宿屋に案内された。ザンによるとなんでもここの主人がフェイロンの拳が大好きで、武術大会ともなると列車を乗り継いでまで見に行くとか。
小さな引き戸から中に入ると案外広い。中にはすでに三人の客が昼間から飲んでいる。
「着いたかね。私の名前はワン(王)言うね。よろしくね。これからはここを我が家と思って自由に使ってくれたらいいね。食費も宿代も無料ね。まずは腹がへったであろうから丸鶏の唐揚げでも食べるといいね。その間にシャオタオ(小桃)がお部屋に案内するね」
どこの出身だろうか、独特の訛りがある主人だ。
いつの間にかシャオタオと呼ばれた女の子が横に立っていた。化粧けのない顔にお下げ髪。大きく開いた目と対称的なおちょぼ口。年は二十歳くらいか、にこにこしながらこちらを見ている。三人の鼻の下が伸びる。
「こちらへどうぞ」
可愛い声で二階へと上がる。そのお尻をついていくと一番すみの部屋へと通された。二人部屋だったが真ん中には絨毯の上に布団だけが敷かれていた。聞けばベッドが三つは入らないと言う。
「俺ここ」
フェイロンが右のベッドを取るとハオユーがおもむろに左のベッドに寝転ぶ。
「床の上と言っても敷き布団は二枚重ねですし、寝心地はあまり変わりませんわ」
ウンランがのろのろと布団に倒れ込む。
「ま、こうなるわな」
などとぶつくさ言っている。
これで衣食住の心配はなくなった。
新しい朝
ここはとある打ち捨てられた寺院。楠やブナがうっそうと生い茂り、一つの森のようになっている。木漏れ日がちらちらと地面を照している。夏の朝は早い。
「今日から新しく武術指導をしてくれるホアン先生だ。使う拳は南派拳法の洪拳。豪快にして華麗、様々な秘拳を持つ南派拳の代名詞の拳だ。そして教えてくれるのは皆も聞いた事はあるだろう。河北の龍ことホアン・フェイロンの名を」
次の日、早速練習が始まった。教えてもらう拳がいきなり変わったので、皆がざわざわしはじめた。
ザンの紹介を受けて、フェイロンが生徒の前に出て大声で語り出す。
「今日から皆を指導するホアンだ。いきなり別の拳を身につけるのは納得がいかないと思うが、様々な事情で俺が皆の指導を受け持つ事になった。以降よろしく頼む」
今日来ている生徒の数はざっと五十人ほど。入れ替わり立ち代わり練習にくるのでその日にならないと数は分からないと言う。
ここに集まってきた生徒は、皆いざという時抗日運動に参加する連中だ。ザンの武館が閉められてもザンに着いてきた者達だ。日本軍の理不尽な振る舞いによって肉親をなくしたものや投獄された者、単にザンに心酔している者、様々な背景は一人一人違うが、抗日運動にいつでも参加する覚悟は皆同じ、言わば同志だ。
ざわつく中、質問する生徒が。
「ホアン先生、俺たちが今まで習ってきたのは北派拳法です。そこへ南派拳法の代名詞である洪拳を混ぜてしまうのは無理があると思うんですが」
「成る程多少無理があるが、拳を極めるのに北派も南派も関係ない。確かに別の拳理の拳を習いたての頃はいきなり力が落ちる者もいるが、また復活してくるもんだ。あまり深く考えるな」
フェイロンらしい返答にリーやジァンはクスクス笑う。リーは元々蟷螂拳、ジァンは形意拳を習っていたからである。習う拳を変えると力が落ちたり、逆に一気に強くなったりを身を持って経験しているのだ。
「これから『工字伏虎拳』という套路を練習する。まずは俺がやって見せるんで感触を掴むように」
フェイロンは前に出ると手で両端の生徒をどけた。皆が円形に取り囲む中、両腕を上下し始めた。
両腕のうなりが聞こえて来そうな見事な演武に皆圧倒される。フェイロンの背が高く腕が太いので、より一層派手に見えたのかも知れない。
演武が終わった。パラパラと拍手がなった。
「覚えるのはこの套路だけだ。これを覚えれば虎形拳が使えるようになる。俺の得意とする拳だ。硬橋硬馬の拳で、特に短距離で威力を発揮する。なるべく早くというザンの要望なので、日の出から日の入りまで徹底的に鍛え上げる。そのくらいやれば早くて一週間で覚える事ができるであろう。そこからは対人訓練だ。技の一つ一つを分解し、攻防それぞれに別れ実際にその技を使ってみる。何か質問はないか」
「あのー」
「なんだ?」
「その套路はとても猛々しく、華麗な技の数々ですが、本当に実戦で通用するんですか?」
いかにも腕に覚えありという風な古参の生徒ゾウが歯向かって来る。
「仕方ない。第七手目のこの技。これを実戦で使って見せてやる。どこからでもかかってこい」
「では参ります」
フェイロンは虎拳の構えを取る。ゾウは義和門拳の構えだ。男が踏み込んで右、左と連打を繰り出すもフェイロンは顔で避けるだけでかすりもしない。もう一度右の拳がフェイロンに当たりそうになった瞬間、虎爪を捻りながら相手の右拳を上げ受けし、がら空きになった脇に左掌を叩き込む。男は後ろにぶっ倒れてしまった。少しだけ拍手が鳴った。
立ち上がり構え直すゾウ。今度は左前蹴り、右回し蹴りの連続技だ。フェイロンは右手で前蹴りを払いながら相手の懐に飛び込むと、回し蹴りを左掌で受け、重心が崩れたところに軽く胸を押す。男はまたどうっと倒れる。
まだ行く。今度は左の手刀をうちながら右膝蹴りを食らわそうとするが、フェイロンは易々と手刀をあげ受けで制して膝蹴りは体裁きで避け、また右手の下の肋骨を掌で叩き上げる。
「ま、参りました」
ゾウが降参し頭を下げる。
同じ型でも違う使い方ができることを示したのだ。皆が盛大な拍手を送る。
このような高等技術はフェイロンにしかできない。三つの頃から父親に厳しく拳術を叩きこまれた賜物である。フェイロンがいくら泣いても父親は容赦はしなかった。当時は辛かったが、今では感謝をしている。
「もう一つお聞きしたいのですが」
今度は別の男がフェイロンに尋ねる。
「なんだ?」
「練習中に途中で休んだりしてもいいんですか」
「おう、それは構わないぜ。いつ練習に参加するのも自由、早退するのも自由だ。ただし覚えるのが遅くなるだけだがな」
ほっとする生徒達。
「さてまずは五班に別れるんだ。俺とハオユー、ウンランにリーにジァンがそれぞれついて教える。さあ早くするんだ」
生徒達はあたふたと五班に別れた。問答無用で最初の呼吸を整える第一手から始まった。
そこへハオユーが、フェイロンに歩みよりひそひそと話す。
「兄さん、ジァンの班にいるあのデカい男、どこかで見たことないか」
「デカい男なら探せばどこにだっているぞ。ま、確かに言われてみればどこかで見たような」
「俺は見たことがある。だがどこで見たのかが思い出せないんだ。おーいウンラン!」
ウンランがニコニコしながらやってきた。
「ウンラン、あのデカい男を見たことないか?」
ウンランが目をほそめる。
「さあー。俺はちっちゃいから大きな男の顔なんかハナから覚えないんですよね。ハオユー兄ぃ、そんなに気になるんですか。なんなら呼んで来ましょうか」
ハオユーは腕を組ながら頭をぐるぐる回していた。何かが起こりそうで危うい気持ちになったが、「ああ、そうしてくれ」とウンランに言った。
ウンランが男の元へ走り、何かを告げている。
果たして男の正体とは。
怪しい男
フェイロンはザンの所へ行き、小声で訊く。
「あのデカぶつの素性はなんだ。どっから来たんだ?」
「あーあいつか、名前はダーフー (大虎)、朝鮮族の出身だそうだ。右手に包帯を巻いているが、日本軍に家を焼けだされた時に火傷を負ったそうだ。あまり自分の事は話さない無口な男さ。あの男がどうにかしたのか」
「いや、どっかで会ったような気がするんだが、どこで会ったのかが思い出せないんだ」
「ここには二週間ほど通って来ている。まだ新米さ。あいつも抗日運動の同志だ、よろしく頼む」
「ああ、任しとけ」
やがてウンランがダーフーを連れて戻ってきた。ダーフーは素直にゆっくりと着いてきた。
上半身はボロい長袖のシャツ一枚。ズボンも所々破けている。短い髪に、無精髭。しかし身体中を筋肉の鎧で覆い、眼光鋭くとても焼け出された男の目ではない。
「お前は日本軍に焼け出されたそうだってな」
「寝てる時だった、家の全ての壁に油をまかれ、間一髪逃げ出した。この手はその時に負った火傷だ。日本軍に報復するために人づてにここにたどり着いた」
時折聞き取れない箇所があるが、いかにも朝鮮族の訛りが入っているように思える。
練習していた者達はなんだなんだとフェイロンとダーフーのやりとりを見に集まってきた。
そこで思い出した。あの時負けた日本兵ではないかと。
「お前は朝鮮族だったな、だったら足技が得意じゃねーのか」
間髪入れずにフェイロンがダーフーに龍形拳で襲いかかる。右の中段突きをダーフーは左足で防ぎ、そのまま、右回し蹴り、くるりと振り返って、旋風脚。フェイロンが左前蹴りを放つと、それも左足で払いながら右前蹴りをフェイロンに飛ばす。フェイロンはスッと下がって前蹴りを避ける。
今度は虎形拳で挑んでみる。主に上段を責めるとこれはさすがに手技で防御する。しかし、どこか手を抜き、攻撃をわざと受けている気がする。しかし危うくなると真剣に受けて立つ。
次に足技である。フェイロンが上段に回し蹴りをすると、なんと足で止めたではないか。防戦一方だが、そこはフェイロン、見抜いている。わざと反撃しないのだと。
まあ、挨拶がわりの戯れである。力を入れて殴ったり蹴ったりしてないので、ダーフーの方も適当にやっているんだろう。
芝居がかった散打に胡散臭く思いながらもフェイロンが言う。
「成る程大した功夫(クンフー)を積んでいるじゃねーか。これからお前は足技のダーフーだ。なあみんな、今のを見たか」
皆から拍手が送られる。
足技のという二つ名がつけられたダーフーは少し居心地が悪そうにしている。
「さあ戻って練習するんだ」
フェイロンに促されダーフーは元の位置に戻った。
皆が真剣に工字伏虎拳の練習をしている。時間はあっという間にすぎ、昼になった。ザンが大声で全員に告げる。
「ここらで一端休憩を取ろう。今日も大王菜館から五十人分のちまきの差し入れがあった。階段の上に置いているので皆一つづつ取っていくように。二つ取っちゃだめだぞ。さあ並んだ並んだ」
皆は言われた通りに列を作る。そしてちまきを受け取っていく。足りない時は自分の金で昼飯を食べに町に降りていかなければならない。
こうした差し入れは自ら練習に参加出来ないものの抗日運動を支援するちまたの食堂の主なんかが協力してくれて成り立っているのだ。
今日は二人のあぶれが出た。二人の男は連れだって出て行った。
「じゃあ、俺達も行くか」
フェイロン達は別行動だ。山門をくぐり、町に出た。菜館や酒家がちらほら見受けられる。
そのうちの一軒に立ち寄った。リーとジァンが一つのテーブルに。フェイロン達は別のテーブルを占拠した 。
注文を取りにきたおばさんにワンタン麺を五つ頼むと、あの怪しい男の話になった。
「間違いない。武館を潰しにきたあの日本兵だ」
フェイロンがそう言うと、ハオユーがさもありなんという顔をした。
「この前は顔が良く見えなかったんだ。軍帽も被ってたしな。それが今度はあの無精髭だ。怪しいとは思ってもいまいち自信がなかったんだよ」
「しかし大胆な男ですねー。まさかザン先生の生徒になっていようとは」
ウンランが口を挟む。
「それくらいできなきゃ軍人なんてやれないんだろうよ」
「特務機関員って知ってるか」
ハオユーが話題にのせる。
「さあ」
「日本兵のなかでも選りすぐられた諜報員のことだ。要人警護から諜報活動まで幅広くやっている。あのデカい男はそれじゃないかなと思っている」
ハオユーの指摘にフェイロンが身を乗り出す。
「諜報員て、スパイの事か」
「そうだ。仲間のふりをして皆に溶け込み、あらゆる情報を集める。この連中がたちが悪くてな、前に梅花拳の連中が一斉に検挙されたろう。この事件にも特務機関員が深く関わっていたと言われている」
ワンタン麺が運ばれてきた。三人とも必死になってかきこむ。
「で、梅花拳の次は義和門というわけか。はふはふ」
「そうだ、はふはふ。実際にザン先生は俺たちに二ヶ月で仕上げてくれと、注文をつけているしな」
「目が離せねーな。はふはふ」
食事代をフェイロンが支払い、山寺へと戻る。午後の部も休みなく続けられ、皆の努力のかいもあり、全体の三分の一ほど形だけは身に付いた。
日の入りの時刻になった。一日中練習にあけくれた皆は、肉体も精神も疲労困憊である。互いに礼をしてから家に帰って行った。
ザンはこれから会合がある。邸宅とは反対方向に歩き始めると、しばらくしてダーフーこと与儀が後ろをつけ始めたではないか。それを追いかけるフェイロン。与儀はザンが後ろを振り向くと、すっと、路地裏に隠れる。
しばらく身を隠していると、ずかずかと与儀の前に男が表れた。フェイロンである。
「お前はあの日本兵だろう!」
こんなところで大声を出されるのがいちばん厄介だ。与儀は困ったような顔を隠しもしない。
ザンの行方は、もう分からなくなっていた。
「だとしたらどうする」
「俺と闘え!」
「なに」
二人の間に緊張が漂う。
暗雲が立ち込め、再び闘いの幕が開く。