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天空の拳 ep7~ep9

   再戦

「俺と闘え!」
 フェイロンはなおも迫る。
「なぜだ」
 不可解なフェイロンの申し出に、いぶかしげに訊く与儀。
「俺はあの一戦が悔しくて悔しくてしょうがねえ。あの一戦で面子を潰され、無敵の評判を失い、武館を失い、根なし草になった。完全な状態で闘わねーと諦めがつかねえ。言い訳がましいがここのところ生徒達の指導に追われ自らの鍛練がまったく出来ていなかった。その上酒を飲んでいた。これじゃあ負けて当たり前だ。それからの一ヶ月というもの、俺は自分の鍛練にあけくれた」
「ちょっと待て。自らの失地回復のために闘いを挑んでいるのか」
「それ以外に何がある」
「誰も見てないところでか」
「俺が納得できるかどうかの問題だ」
「ははは」
 与儀はついに笑い出してしまった。
「何がおかしい」
「いや、少し子どもっぽいと思ってな。中国人はそこまで面子にこだわるのか。たとえ人が見ていなくとも」
「面子を潰されたら、面子を取り戻す。それ以外にどうしろというんだ」
「俺ならどうでもいいがな面子など。日本人だからな。まあいい。そこまで言うんなら受けて立ってやる。その代わり俺の事は秘密だぞ。俺の今の仕事は義和門の連絡網の全容解明だ。分かっていると思うが、仕事の邪魔はするなよ」
「……分かった。約束する。こっちに降りて来い」
 フェイロンは橋の横から川の砂地に降り立つ。与儀もそれに続く。二人合い対し、再び闘いが始まった。

 二人の間にピンとした空気が張り詰める。フェイロンは左手を虎爪にして前に出し、右手を拳にして後ろに引く。まずは虎形拳で様子見である。
「『空手に構えなし』ともいう。しかし今日は特別だ。空手の構えを見せてやる」
 与儀はそう言うと左手を右耳に持っていき、手刀を前に出し、逆に右手は前に出してから引き中段に構える。「手刀構え」という。
 お互いの距離は三歩ほど、後一歩踏み込めば互いに回し蹴りの射程圏内に入る。
 そこからはにらみ合いだ。少しずつ動きながらじりじりとした時間が過ぎていく。

 ドン!

 与儀が突進し、右正拳突きを食らわす。相変わらず速い。フェイロンは落ち着いて間一髪首を横に振って避ける。懐に入ると胸を二発中段を拳で突くが避けようともしない。顔面に裏拳を放つとこれは外受けで払う。フェイロンが右脇を虎爪で殴ると効いたと見えて右手で中段払いをし、一旦距離をとる。
「成る程、前に比べて動きが格段に違うな」
 与儀はフェイロンの右へ右へと回り込む。一歩一歩が勝利の確信に満ちている。
 また突進すると今度は前蹴りを撃ってくる。フェイロンは半身になって避け、与儀の中段下突き、上段正拳突きを丁寧に受けていく。
 やはり一発一発が重い。右正拳一発で倒された前の闘いが頭をよぎる。与儀が山突きを仕掛けてくる。上段、下段を同時に突いてくる大技だ。フェイロンは上段を上げ受けで受け、下段は左手で下に押さえつけるように受ける。
 フェイロンの反撃だ。左の虎爪で与儀の脇の下を突くが右肘で防がれる。同時に右回し蹴りを飛ばすも左腕で弾かれる。
 与儀は突っ込んでは引き、突っ込んでは引きを繰り返す。フェイロンの洪拳が後の先、受けてから逆襲する拳と見抜いたからだ。
 与儀が横突きを仕掛けてくる。フェイロンは間一髪で虎爪のまま腕に打ち付ける。顔面に食らわない為とはいえ、これはやってはいけないことの一つである。受け手である前腕そのものが駄目になっていくからだ。鉄橋鉄馬と称される洪拳だが、正しい運用をしてこそである。
 拳の応酬で手が重くなってきた。こうなるとだんだん状況が不利になっていく。
 与儀の左正拳突きをつかみ取り投げに出るフェイロン。しかし重い。逆に背中に数発の突きを食らってしまった。
 振り返りながら裏拳で殴り付けるも、微塵も痛くなさげににやりとしているのが憎々しい。
 貫手で上段を狙うも、右腕で防がれる。逆に大きな弧を描いた左手刀打ちが飛んでくる。フェイロンはそれを掌で払いながら左直突きを試みるも右内受けではね飛ばされる。
 拳の応酬が続く。与儀は口の端がにやついている。何の笑みだろうかといぶかるフェイロン。
(楽しんでやがるのか!)
 武術をやっていて時折そのやり取りが面白くつい顔に出てしまう。フェイロンにもそういう時がたまにある。力が拮抗しているほど面白いのだ。
 しかし、前腕の痺れが尋常ではなくなってきた。重い。このままでは動かなくなってしまう。
 虎形拳は基本的に剛の拳だ。与儀の空手も剛の拳。
 剛と剛がぶつかり合うと力の強い方が勝つ。
 
 フェイロンが何かを決したように与儀を見る。
 ここへきて構えが左前立ちから右前立ちに変わった。立ち式は膝を内側に締め、両手を貫手にし、その照準をピタリと与儀に合わせる。
 柔の拳である蛇形拳に変化したのだ。
 このような構えの拳を与儀は見たことがない。怪しげにフェイロンを睨むと軽く追い突きを放ってみる。
 それを螺旋状に受け流すフェイロン。と同時に目を狙った四本貫手が三連発でやってくる。
 速い! 与儀は辛くも身を引いて避けたが、このような拳と対戦した事がない。
 慎重になる与儀。空手の貫手の使い方とも違う。指が一本でも目を捉えれば、致命的になるのは間違いない。
 徐々に腕のしびれが取れていくフェイロン。与儀は渾身の左中段回し蹴りで対抗する。まるで太い丸太をぶつけるような蹴りを、フェイロンは躊躇なく内懐に飛び込むと、腿を肘で受け無効化し、また三連続の四本貫手だ。
 一発目を上げ受けで受け、二、三発目は首を沈めよける。 その体勢から右下突きをフェイロンの顎にぶつけると、フェイロンは受け切れずによろよろと二歩後ろに下がる。
「正体見たりだ。行くぞ!」
 与儀の左追い突きを右手で円形に受け流し、隠してあった左手で与儀の喉を突く。
「むぅ」
 しばし与儀の動きが止まる。そこへさらにしつこく目潰しの嵐だ。与儀は顔面を十字に覆い、目くらめっぽうの蹴りを出すのみだ。
 そこへ容赦なく金的に蹴りが極る。もんどり打って転がる与儀。

 バシィ!

 振り返るとフェイロンの掌が与儀の顔面を捉えた。固まる与儀。フェイロンがその気になれば与儀は目を潰されていた。
「俺の勝ちだダーフー、目を潰されなかった事を感謝するんだな」
 与儀はここにきて何か考え事をしている。
 フェイロンがズボンをパンパンはたいていると、与儀が今の拳の事を尋ねる。
「その拳は虎形拳とは明らかに違うな。なんという拳だ」
「五形拳という。龍、虎、蛇、鶴、豹の五つの拳から成り立っている。洪拳の真髄だ」
 すると思わぬ事を与儀が口にする。
「その拳を俺に指南してくれないか」
 突然の与儀の嘆願にさすがのフェイロンも面食らった。
「この拳を敵であるお前にか?」
「夕暮れ時の一時だけでいい」
「そんなにこの拳に驚いたか。そりゃ傑作だ。敵である俺がお前に秘拳を本当に教えると思っているのか」
 フェイロンも何かを考え込んでいる風な様子だ。
 この男もまた、軍人よりも前に一人の拳士なのだ。優れた拳士には礼を持って迎え入れろと小さな頃から言われ続けている。
「よし、じゃあ、稽古が終わってから一時だけ指南してやる。他言無用だぞ」
「分かっている。誰にも言わない」
「そうと決まれば話は早い。明日からこの場所で稽古をつけてやる」
「恩にきる」
 与儀が少し頭を下げた。

   ザンのゆくえ

 一方、ザンは尾行の事を知ってか知らずか狭い路地裏に入り、そこを抜けた大通りに出た。少し歩くとディンジェ菜館の前に立つ。身なりを整え菜館の中に消えて行った。夕方なので人でいっぱいである。
 喧騒の中、手を上げる人物がいた。形意拳をまとめるリァン(梁)と、テーブルを囲んで八極拳のタン(唐)が座り、二人とも既に飲み始めていた。
 右手を拳にし、左掌でつつみ礼をする。
「毎日暑いな」
 挨拶を交わした後、ザンもテーブルの上におかれた湯飲みに入った酒を飲み干し、早速本題に入る。
「ここ河北一帯でも武館経営や、大会が出来なくなった。義和門の方はどうだ」
 タンが尋ねる。
「同じだよ。しかし隠れて修行する場を見つけたんだ。森のようになってる、昔の寺院だ。そこであの洪拳のホアン・フェイロンを味方につけ、稽古をまかせた。これで人の口伝てにこの話が伝われば南派の連中も、次々と味方に着いてくれるだろう」
「ホアンが?」
「ああ、一人の日本兵に惨敗し、生徒も、武館も失くしたんだ。それで俺の食客になったって訳さ。そうだ、明日にでも会わせてやろう。大会の時は恐ろしい顔をしているが、普段は笑顔を絶やさない気のいい奴さ」
 ザンは道場経営もしていたが、表の顔は宝石商という変わり者だ。なので富豪とまではいかないが、かなりの金持ちなのである。
 普通の宝石屋から抗日運動に参加するようになったのは五年前の兄の死がきっかけだった。運動に熱心だった兄はことある毎に暴動に参加していた。そして変わり果てた姿になって戻った時、ザンの中で何かが決壊した。以来、人が変わったように道場経営に乗りだし、運動の仲間を募った。その活動は、端から見ても痛々しいほどに必死であった。そして武館を閉められた後も地に潜り、活動を続けているのだ。
 現在生徒、運動員は百五十名ほど。今日は次の運動の人数のすり合わせで集っている。
「梅花拳のクス(許)はどうした。一斉検挙から逃れたんじゃないのか」
「そういえば音沙汰がないな。びびってしまって運動もやめたんじゃないかな」
「もう故郷に戻ったのかな。人一倍運動には熱心だったんだがな」

 満州事変前、華北一帯への日本の侵略は中国民族を存亡の危機に立たせた。当時中国は深刻な国共内戦のさなか(国民党対共産党)にあったが、日本の帝国主義的侵略に対しては、日貨排斥などでは不十分とする中国共産党の指導のもとで大衆の抗日運動の組織化 (抗日救国会) が行われていった。ザンやリァンやタンなど武術家達もその波に乗り、抗日救国会に名を連ねた。彼らは学生運動とは別に独自の連絡網を持ち、暴動を重ねていた。

「今夜集まってもらったのは他でもない。次の目標の特徴を話す為だ」
 タンが切り出す。
「清朝末期に役場として建てられた所を日本軍が接収してからは特務機関員養成所のような場所になっているようなんだ」
「特務機関員ってなんだ?」
 ザンが訊く。
「早く言えばスパイさ。」
 リァンが横から口を挟む。
「ここを叩く意義は大きい。戦局をひっくり返しかねない兵士どもを一網打尽にするんだからな。その昔日帝とロシアが戦った事があったろう。その日帝の勝利にも中野という特務機関員が深く関わっていたとされている」
 リァンが言う。
「そこで作戦だ。一人の逃亡者も出さないように建物を人の輪で囲む。必要な人数は千人規模となろう。とにかく味方を募らなければならない。顔の広いザン、お前の仕事だ。フェイロンが運動に身を投じた事を喧伝し、南派拳の奴らも巻き込んでいくんだ。もちろん本部を叩くのは俺たちでやる。一人残らず皆殺しだ。やれるな、ザン。五百人ほどはかき集めてほしい」
「少し時間をくれればやれるだろう。梅花拳の奴らにも声をかけてみよう。ただし二ヶ月ぐらい待って欲しい。武館を閉めて散り散りになった者を引き留めることは容易な事ではないことが予想される事と、今俺の生徒に洪拳を教えているんだが、これがものになるのにそれだけの時間が必要だからだ」
「一ヶ月では無理か」
「難しいだろう」
 タンが返す
「分かった二ヶ月だな。それ以上は待てないぞ」
「承知した」
 ザンは二杯目の酒をぐっとあおる。
「配置についてだが」
 リァンが口を開く。
「最も人数が多いと思われる兵員宿舎は、俺たち形意拳の門弟が受け持つ。これまでに運動に参加する意思を表した者は八十人ほどだ」
「少し少ないんじゃないのか」
「だからザン、お前に頼らざるをえないんだよ。三十人人を貸してくれ。なに、俺たちは青龍刀を持って挑む。百人以上いれば全員抹殺出来るだろう」
 ザンが少し考えた後、首を縦にふる。
「分かった三十人だな。約束しよう」
 次はタンだ。
「俺たちは武器庫を占拠する。機関銃でも撃たれたらたまったもんじゃないからな。人数は五十人。少ないようだが仕方がない。八極拳はもともと回族の拳だからな。まあ、こっちは人もあまりいないだろうし、五十人でなんとかするよ」
 ザンが尋ねる。
「後百人で本部をつけばいいんだな」
 するとリァンが首を振る。
「それはフェイロンの一味に任せたい。夜なので本館の方にはほとんど人がいない筈だ。義和門には人の輪に加わって欲しい」
 ザンは少し思いを巡らせていたが、やがて意を決したようだ。
「分かった。フェイロンには明日話そう。他には?」
「とりあえず人数のすり合わせができたようだ。俺は北派の連中に声をかけ、説得に乗り出す」
「俺は太極拳や八卦掌などだ。なーに、二ヶ月もあれば余裕だろう。」
「分かった。では誓いを込めて乾杯といこう」
「乾杯!」
 三人はまた酒を一気に飲み干すのであった。

   シャオタオの恥じらい

 フェイロンがくたくたになって宿に戻ってきた。まずは飯である。ちょうど客がいっぱいの時間帯で、繁盛している様子が伺える。
 シャオタオが笑顔で注文を取りにやって来た。フェイロンは麦飯と豚の角煮と野菜炒めを注文する。
 忙しそうに動き回るシャオタオ。それをニコニコ見つめるフェイロン。
 そこへ運が悪いというか、二人組のいかにもチンピラ然とした男達が入ってきた。
 注文を取りにいくシャオタオ。男達はまず酒と水餃子を二人分注文をする。
「いい女じゃねーか」
「遊びに誘いましょうか」
「おお、そうしろ」
 斜めに座っていたフェイロンは、男達が発するよこしまな雰囲気を感じ取っていた。
 まずはフェイロンの豚の角煮と飯が出てきた。フェイロンは角煮を頬張り、大盛りの麦飯をかきこむ。
 次に男二人のテーブルに酒と水餃子だ。その時配膳をしているシャオタオの袖口を一人の男が掴み、離さない。
「横に座れよねーちゃんよ」
「今忙しいんです。離して下さい!」
 もう一人の男はへらへら笑っているだけだ。
 当然の如くフェイロンが立ち上がる。
 何も言わずに袖口を掴んでいる左腕の手首を掴むと物凄い力で万力のように締め付ける。
「いてててて」
「何するんだこの!」
 もう一人の男が立ち上がり、言うか言わないかの内に左の裏拳が男の鼻っ柱を捉え、男はまた座る。男は鼻血をたらしはじめた。
「汚ねぇなあ」
 右の男がやっとシャオタオの袖口を放した。
「お前ら店の中で暴れるのは厳禁だからな。表に出ろ!」
 と、フェイロンが叫ぶも
「いえ、もういたしません旦那」
 これにはフェイロンもずっこけてしまった。
「お前らやくざか。どこのもんだ」
「は、はい。龍道会の者です」
「ここはホアン・フェイロン様の縄張りだ!いらぬ事をするなよ」
「はい。分かりやした、旦那」
 二人は静かに水餃子を食べるのであった。
 シャオタオがまたフェイロンの席に野菜炒めを持ってやって来た。
「さっきはありがと」
 フェイロンの耳元でささやく。
「話があるんだ。後で少しでいいから仕事を抜けてきてくれないかな」
 シャオタオが微笑む。
「いいわよ。もう少ししたら暇になるからその時ね」
 お尻をふりふりしながら厨房へと戻って行った。

 トントントンと二階に上がるとハオユーとウンランが何やら話しこんでいる。
「よう、帰ったぞ」
「遅かったな兄さん、どこをほっつきまわっていたんだ」
「後で話すよ。それより先に風呂だ風呂」
 フェイロンはズボンを脱ぎ、風呂場に向かった。
 風呂と言っても風呂桶があるわけではない。大きなタライが一つあるだけである。そこへ谷から引いて来た水がじょろじょろと流れ込んでいる簡素な造りだ。タライにじゃぼんとつかり、体をたわしでこすっていく。石鹸のない時代だ。昔はこれが当たり前だったのだ。
 それからシャツとフンドシをこすりあげ、これでもかというほど絞りに絞る。そのシャツで体をふき、一丁あがりだ。素っ裸で部屋に戻るとハンガーに引っ掛け窓枠に吊るす。
「それで、何だって?」
 着替えのフンドシ一丁でベッドの脇に座り込み、なぜだかニコニコしている。
「どこに行ってたんだって聞いてるんだよ」
 ハオユーが尋ねる。フェイロンは鼻を掻きながら答える。
「ダーフーと試合をしてきた。勿論俺が勝ったがな。あいつの拳は最初の二歩が物凄く速い。少し苦戦したがなんとかモノにしたよ」
「それで、あの件はどうだった」
「あの件か。やはりあの時の日本兵だったよ」
「何だって! 勿論ザンに引き渡すんだろうな」
「それがな」
 フェイロンはかいつまんで説明した。言いにくかったが、五形拳を教える事まで洗いざらい。
「何やってんだよ兄さん。相手の思う壺じゃないか!しかも洪拳の秘拳である五形拳を教えるだなんて」
「拳士には拳士として対処する。それに敵である俺に拳を指南してくれなんて面白い男じゃねーか。そう思わねーか、ウンラン」
「お、俺はなんとも言えませんね」
 乾いたシャツを着ながらフェイロンは無造作に答える。
「お前らも秘密だからな。分かったか」
「兄貴がそうしろと言うんなら仕方がないですね。他言無用ですね」
「分かってくれればいいんだよ」
 そこへ階下から、フェイロンを呼ぶ声が。
「フェイロンさーん! もういいですよー」
 フェイロンはさらにニコニコすると「おうよ」と返して一階に下りて行く。
「もう何やってんだか」
 ハオユーはベッドに寝転ぶ。フェイロンらしい対応に少しあきれた笑いがこみあげる。来る者はこばまず、去る者は追わずだ。ハオユーも諦めてしまった。

 フェイロンとシャオタオは連れだって店の外に出た。恥じらうシャオタオ。二人はあてもなく歩きながら互いの言葉を待った。
「明後日、店休みだろう。観劇にでもいかねーか」
「うん。行く行く! 今やってる演目『桃花扇』一度見に行きたかったの」
「シャオタオは正確には何歳なんだい」
「ふふ、いくつに見える?」
「三十とか」
「もうやだ。二十一歳よ。フェイロンさんは?十年間も第一線で活躍して来たんでしょう。それこそ三十過ぎているんじゃない」
「はずれー。まだ二十八だよ。最初に大会で優勝したのが十八の時だ。それからの十年間さ」
 シャオタオは改めて目をみはる。
「最初が十八って、そこから、本当に負けなしなの?」
「ああそうさ。ずっと優勝さ。おかげで弟子の数もうなぎ登りだったんだがな。一度無様な負けを喫するとみんな手のひら返しで逃げていったよ。厳しい世界さ。だから俺は面子を取り戻さなくちゃならねえ。いくら血反吐を吐こうがな」
「あ、今のかっこいい!」
「そ、そうか? へへへ」
 二人は川辺に到着した。月明かりがまぶしいほどだ。石橋の欄干に腰かける。昼間は暑いが、夜は涼しい風が吹く。
「子供の頃から父さんから聞かされて育ったのよ。河北に龍がいるって。それからは大会の優勝戦があるたびに列車に乗り込み連れていかれてたわ。フェイロンさん、あなたの試合を見るためにね」
「親子揃って俺のファンだってーのか。そりゃ嬉しいぜ。よし、当日はシャツとズボンじゃなくてちゃんとした武術着を買っていくかな。シャオタオが恥ずかしくないようにな」
「私も武術着でいくわ。昔、三年間ほど詠春拳を習ってたの。そこの先生が強くてね、道場破りなんかあっという間に叩きのめしてたわ。友達と通っていたんだけど楽しかったわ。今は仕事が忙しいんで身を引いたけどね」
「お揃いだな。水色のやつを買ってこよう。そろそろ戻った方がいいんじゃないのかい」
「そうね、帰りましょうか」

 泰定酒家に戻ってきた。
「ただいま。さて私は皿洗いに戻んなきゃ」
 シャオタオは厨房へ消えて行った。
「フェイロン!」
 見るとザンの顔が。
「よう、何か用かい。こっちの方は上手くいってるぜ」
「そうか、それは良かった。実は明日会合に出て欲しいんだ。形意拳のリァンと、八極拳のタンという奴が今この町に逗留している。そこでいろいろと話を聞いて欲しいんだ」
「分かった。時間は決まっているのか」
「正午からにしてほしいとの要望だ。飯でも食いながら話すようだ」
 フェイロンは即決する。
(明日は忙しくなりそうだ)
 フェイロンはおやじさんに酒をたのみ、ザンと飲み始めた。

天空の拳 ep10~ep12|しんくん (note.com)

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