天空の拳 ep22~ep24
特訓の終結
ザンが久しぶりに皆の前に立つ。今日の参加者は八十人ほど。その全てに柳葉刀が行き渡った。時はすでに一ヶ月を切り、嫌がおうにも気分が高揚する。
「今日集まってもらったのは他でもない。この柳葉刀が苦労の末百五十本全員に行き渡らせる事が出来た祝いの日になったことと、フェイロンいわく虎形拳をほぼ全員が修得したという嬉しい知らせがとどいたからだ」
皆が拍手をする。フェイロンがうなずいた。
「それで義和門の刀術の本当に基本となる新しい套路をこれから練習する。なに、刀に慣れるだけの簡単なものだ。是非ともこれくらいは修得して欲しい」
皆が応じる。
「最後に、俺達は人の輪の正門前を固める位置に陣取る予定だが、形意拳のリャンから頼まれて兵員宿舎を襲う役目に、こちらからも三十人あてると約束している。どうだ、誰か希望者はいないか」
すると皆がこぞって手を上げる。ここに集まってきたものは皆肉親を殺されたり投獄されたりした者だ。本当は自らの手で恨みを晴らしたいのだ。
「よーし、ざっと五十人はいるな。この閻魔帳に名前を書いていく。列を作れ!」
横から机が運ばれてくる。椅子に座るザン。新しい薄手の閻魔帳に名前を書いていき、仕上げに血判を押させていく。
「五十五人、これで十分だ。当日は黄色い頭巾をかぶり、敵と味方を区別するそうだ。その手配はリャンがやる。ここまでで何か質問はないか」
「当日はホアン先生達は何をするんです?」
「それは言えない。ある重要な任務に就くとだけ言っておこう」
刀術の稽古が始まった。全部で二十手ほどのごくごく簡単な初心者用の套路である。古株は心得たもので簡単なおさらいだ。フェイロン達は高みの見物である。ようやく工字伏虎拳から解放されたのだ。感慨無量といったところか。
昼になる頃には皆型と順番だけは覚えた様子である。フェイロン達はいつもの菜館に向かった。
「みんなよくぞ苦しい一ヶ月を乗り切ってくれた。まずはその事に乾杯だ」
まだ昼なのでお茶で乾杯だ。
中華定食が配られる。皆ゆっくりと食事を楽しむ。責任を果たしたのでホッと一息緊張が緩む。
「リーとジァンは運動には参加しないんだろう?」
リーが答える。
「はい、私達には妻子がいるもので。参加するのは今日までです。私は本来の仕事の造り酒屋にもどり、ジァンには、私の元で働いてもらうようにしました。運動に参加できないのは残念ですけれど、皆さんのご武運を陰ながら祈っています」
「そうか、今日限りか」
フェイロンは六人分の盃を持ってこさせた。
「一杯だけ飲もう。リーとジァンに幸多かれ。乾杯!」
皆、目の位置に盃を上げ、一口で飲み干す。
「よくぞ今までついてきてくれたな。感謝する」
「私のような者でもお役に立てたでしようか」
「勿論だ。お前達二人がいなかったら一月で終わらなかっただろうよ。長い付き合いだったな。寂しくなるよ」
「皆さんはこれからどうするんです?」
「もうやることはやりおえたしな。宿に帰って昼寝でもしてるよ」
皆が声を出して笑う。
「まあ、今日は最後の日だ。稽古が終わるまで寺にいよう」
食事を終え寺院に戻る。皆もう套路は覚えたようで、ザンの掛け声に従って技を繰り出していく。
フェイロンがザンの近くに座るとザンもとなりに座る。
「皆、かなり強くなったようだ。短期間でここまで仕上げてくれたことにまずは礼を言う」
ザンが頭を下げる。
「いいんだってそれが俺の商売だ。報酬もたんまり貰ったしな、俺の方も礼を言うよ」
「救国運動が終わったらどうするんだ。河南へでも行くつもりか?」
「いやあそこももう危ない。思いきって広東へ船出するつもりだ。今の彼女と結婚してな」
「もう女ができたのか! 早いな、ははは」
「ザンも早く身を固めろよ。運動ばかりやってないで」
「うむ、考えておこう。しかし三十歳を過ぎるとな、そういうことが急に面倒くさくなるんだよ。なぜだろうな」
「俺に聞かれたってわかんねーよ。俺はまだ二十八だぜ。わっははは!」
フェイロンは豪快に笑う。釣られて笑うザン。
「それよりそっちこそどこへ行くんだ。首謀者の一人とあっては捜査も厳しいものになるぞ」
「俺は死ぬまで闘い続ける。たとえ捕まって拷問死しようが本望だ。でないと過去我が武館から運動に送り出しそのまま死んでいった弟子達に申し訳が立たない。もういろんなものを背負ってしまったんだよ」
ザンが思い詰めた顔をする。その横顔に男の覚悟を見てとった。
フェイロンがその横顔を見ながら口を開く。
「お前には本当にいろいろ世話になったな。生徒の紹介の手助けまで。それももうみんなこの手を離れていった。また元の根なし草に逆もどりだ。俺はそういう運命の元に生まれついているんじゃないかと最近は諦めにも似た心境さ。そうだ、向こうについて武館も新しく開いて落ちついたら手紙を書くよ。住所は河北保定市張宝石商で着くだろう?」
「多分な。待ってるよ」
「ああ、約束だ。」
皆がざわざわし始めた。
ダーフーが石段の下から表れたのだ。フェイロンが仰天したのは二人の男に首に柳葉刀を二本突き付けられて身動きが取れない状態になっていたことだった。緊迫し、見つめる全員。男達は寺のお堂に入っていった。
ダーフーから与儀へ
ザンを筆頭に男達がお堂の中に入って行く。フェイロンもあわてて中に入る。そこには胡座をかき、ややふて腐れた表情のダーフーがいた。
お堂の中は案外広く、壊され略奪されたと思われる阿弥陀像の跡が無惨に広がっている。
中に入って来たのは三十人ほど、ザンをはじめ皆手に手に柳葉刀を持っている。
絶体絶命である。
首に刀をあてがっている男の一人がザンに目配せをする。ザンはうなずく。男は大声で叫び始めた。
「こいつは日帝のスパイだ。ある日ザン先生がここに寄り出ていったあと、こいつもいなくなってた。最初は小便にでも行っているのかなと気にも止めなかったんだが、小便にしては長い。そんな事がたびたびあり、俺はこいつについていってみた。すると大木に隠れていたこいつの部下であろう者に何かを言付けている。さっそくその男はどこかへ飛び出していったので俺もその男の跡をつけていった。するとどうだ、その先にはある菜館に入って行くザン先生がいるではないか!男も当然の如くその菜館に入っていった。二回確かめたから間違いないっ!」
男は皆を見渡しながら更に続ける。
「というわけでこの日帝の犬を公開処刑にうっ!」
ダーフーはいきなり座ったまま左裏拳でその男の腹に突きを繰り出した。男は突然の事に息がつまり前につんのめる。もう一人の男があわててダーフーを切ろうとしてもダーフーは両手を十字に構え、立ち上がりながら柄の部分を掴み、そのままくるりと回して刀を取り上げる。
さらに足払いをして倒したところで男に馬乗りになり、刀を振り下ろした。首の辺り、誰もが殺されたと思ったが、ぎりぎりのところに刀は突き立てられていた。男は起き上がりあっけに取られている皆のもとへ走っていった。
ダーフーはくるりと後ろを振り返り敬礼をしながら声を張り上げて日本語で叫ぶ。
「名誉や地位を求めず、日本の捨て石となって朽ち果てる事を本懐とす!」
「ダーフーが狂った」
その後また振り返り皆を睨みまわす。先ほどまでのダーフーはいなくなり特務機関員の与儀がいた。
「足技のダーフーだと?」
与儀はいつも右手に巻いている包帯をハラリと落とした。
そこには中指に巨大な拳だこができているこぶしがあった。
「俺の本当の武器はこれよ」
与儀は不敵に笑う。
(例え与儀が無敵でも、三十人の刀を持った者達にはかなうまい)
フェイロンは考えている。中に入って助けるべきか、それとも見殺しにすべきか。
少し様子を見る事にした。抜刀ができるほどならばそうやすやすとは殺られまい。
与儀が再び吠える。
「お前ら本当に拳士か。揃いも揃って刀を持ちやがって!拳士なら拳士らしく堂々と拳で闘え!」
そして横に一本落ちている刀を拾い上げそれをぶん投げ、丸い大きな柱に突き立てた。
「恥を知れ!」
じわじわと外の熱気がお堂の中に入ってくる。与儀の煽り言葉にまずザンがガシャンと刀を捨てた。それを合図に猛者たち二十人ほどが同じく刀を手放した。
(ふふふ、上手いな)
「いやー!」
素手の相手など敵ではない。突進してくる男に腰の入った右正拳突きをお見舞いする。男はその場に崩れ落ちた。
それを見て三、四人の男が取り囲んだ。与儀を後ろから取り押さえようとするも、左の肘を振り男を打ち据える。やおら刀を持った男が中に入るも与儀はぎりぎり左に避け、男の腹に横突きをぶちかます。
乱戦になってきた。右の男を横蹴りでぶっ飛ばしたかと思えば左の男には上段回し蹴り。左追い突きをきめたその手であごを狙った下突き。
与儀は一つ所にとどまってはいない。絶えず動いている。それが押さえつけるのを難しくしている。
向かってくる者を正拳突きで倒し、そいつを後ろから掴みあげ地面にどたりと叩きつけ背中に蹴りを叩き込む。今度は手刀を振りかぶった男に鉄槌を左の肩に打ち落とす。「ぎあ!」男の鎖骨が折れてしまった。
一方的な展開になってきた。時折与儀の攻撃を受ける者もいたが、手技でのやり取りは与儀もじっくりと鍛え上げた。相手の左右の連突きを左手一本で受け右横突きをぶちかます。相手はふらふらっとしたあと腰を落とし気絶をしてしまった。
後は蹴り技だ。そこは足技のダーフーと呼ばれた男である。衝撃力が半端ない蹴りを、囲まれている男達に容赦なく叩きこんでいく。
素手で向かっていった者達二十人はほとんど倒されてしまった。後十人ほど刀を手放さなかった者達が残っている。フェイロンがどうするか様子を見ていると、与儀はここに至ってようやく構えた。
「いやー!」
刀を持った男の一人が与儀に袈裟懸けに切りつける。その一閃をなんと左上げ受けでくいとめる。血が吹き出すと思いきやいっこうにその気配はない。どころか右正拳突きを男の顔にめり込ませる。
空手の鉄製の小手である。普段は長袖の服で隠してあるが、いつも最悪の事態に備えて常時着けているようなのだ。
空手は薩摩侵攻以来、武士階級でも武器の帯同を許されない歴史から徒手空拳で戦う技術が発展して完成した武術である。元々の仮想敵が刀を持った薩摩の武士なのである。なので刀の攻撃を受け止める防具は、当然存在する。さらに中国武術と決定的に違うのは、空手の型に表れている。中国武術の套路よりも、上げ受けが極端に多いのだ。これも薩摩の示現流を制する為の空手の特徴の一つである。
そこへ刀を持った素人がおたおたと攻撃しても大概袈裟懸けになる。左の小手をぶつけるのにちょうどいい位置に攻撃を仕掛ける事になるのだ。当然一人づつ来てもやられるだけ。それを見ていた男達は二人一辺にでて、挟み撃ちをする考えに至る。
しかし同じ事だった。同時に攻撃してもまずはあの伸びる左の追い突きを打ち当てられ、もう一人は後ろ蹴りでぶっ飛ばされる。
最後にザンひとりが取り残された。ザンはまた刀を拾い上げ与儀に突進しようとする。が、フェイロンがザンの肩関節を極め動けなくする。
「骨を折った者が四人だ。早く手当てをしてやれ」
与儀がぼそりと言う。
「おのれー日帝め!」
「待ってくれザン。ここは俺に任せてくれ、頼む」
「何をしようと言うんだ!」
「こいつに見せたいものがあるんだ」
ザンはしばらく無言でいたが、やがて一言叫んだ。
「勝手にしろ!」
「すまないザン」
フェイロンは与儀を連れてお堂を出た。
出会い
フェイロン達が泰定酒家に戻ってきた。シャオタオが喜んで顔を見に行くと、百九十センチはあろうかという、背の高いフェイロンよりさらに一回り大きな男を連れてきている。シャオタオは仰天してしまった。こんな強そうな人もフェイロンの弟子だなんて。シャオタオは改めてフェイロンに惚れ直す。
店は夕食どきという事もありほぼ満員である。シャオタオがてんてこ舞いをしている。
「フェイロンさん、三人揃ってお帰りとは珍しいね。まずは風呂に入るかね」
「ああ、このデカブツも入るんで一時はかかるかな。その間に客も引くだろうよ」
フェイロン達が二階に上がって行く。あの大きな男の表情に陰がさしてる気がして、少し心配になるシャオタオ。
思えばフェイロンとの出合いは衝撃的だった。父親につれられてフェイロンの試合を見に行ったのが十三歳の時。思春期に突入したて、恋をし始める時である。そのころフェイロンは二十歳の若者、すでに自分の武館を持っており、なにがなんでも優勝しなければといちばん尖っていた頃の事だ。
優勝決定戦、二人の拳士が壇上に上がる。互いに礼をし試合が始まる。その時父親がそっと耳打ちする。
「この試合、あの若者の方が勝つね。速さ、拳の練り上げ、並み大抵のものじゃない。去年も優勝したけれど、今年はさらに気合いが入っている。おそらく相手は三分ともたないね」
試合が始まった。フェイロンは龍形拳の構えだ。右手を拳にし、左手を龍形手にし、それをくるむようにする。
そして呼吸法によって気を練る。闘いは静かに始まった。
相手は翻子拳の使い手、やや低い姿勢から、物凄い連続突きを繰り出してくる強敵だ。両手を拳にし、その直線上にフェイロンの上段がある。
二人とも動かない。業を煮やした翻子拳の男が突進し、拳を出すとすでにそこにフェイロンはいない。すっと横に避けていたのである。連続突きの弱点は、豹形拳で知り尽くしている。相手が向き直った所に拳で相手の顎を痛打する。ぐらりとしたところを今度は蛇形拳で正確に相手の喉を突く。
それでも連続突きをやめない男。フェイロンは今度は受けに行く。例え相手の拳が速くても手技の技術には絶対の自信がある。三手受けた後、攻防同時の右直突きを顔面にぶちかます。男は後ろにふらふらっとへたりこみ、ぜーぜー肩で息をしている。最初の覇気は何処かへ行き、弱々しく立ち上がる。
男は連続突きを捨て、今度は回し蹴りの嵐だ。フェイロンはこれを待っていた。慣れない事をすると必ず隙が生ずる。前腕で受け止めながらその一瞬を待つ。蹴りが引いたその刹那、フェイロンは渾身の横蹴りを相手の腹にお見舞いする。男はたたっと後ろに何歩か引いた後、どしんと仰向けにひっくり返った。
審判が男に確かめる。男は負けを認め、フェイロンの優勝が決まった。
「ね、三分だっただろう」
「すごーい、あの人強いのねー!」
「そりゃそうさ、お父さんが去年目をつけたからね。必ず勝つよ」
武術の事は何も知らないシャオタオにもフェイロンの強さははっきりと伝わった。
爆竹が打ちならされフェイロンが満員の観客席に手を上げる。シャオタオにフェイロンが近づいてくる。
初めて顔をまじまじと見る。整った顔に少し大きな鼻。シャオタオは一発で気にいってしまった。
「あのう、これを使ってください!」
シャオタオが出したハンカチを取り、
「おーありがとな」
と額の汗をふき、「ちーん」と鼻水をとった。
(汗だけで良かったのに)
家に帰り、さすがに一度洗濯をしたが、シャオタオは自室の壁にそのハンカチを張り付けた。
まだ幼い心にも小さな恋が芽生えた瞬間だった。
「ていう事があったのよ。覚えてないの?」
「わはは、そりゃ傑作だ。まったく覚えてねーや」
「もう!大雑把に生きているんだから!」
しかし、このフェイロンの豪放磊落な性格にも惚れているシャオタオである。男も女も惚れてしまう強さと可愛げが共存している。
夜になり、店が閉まる前のちょっとした逢瀬の時。
「ねぇ、さっきお父さんに言ってた事って本当なの」
「うん?旅に出ることか」
「そう。あの大きな人も連れていくんでしょ」
「与儀の事か、あいつは強いぞ、俺と互角に闘える唯一の人間だ」
「でしょう。だから心配なのよ。なにか表情が雲っているような。女の勘は当たるのよ」
「ははは、心配ないって。今日ちょっとへこむ事があって、それで暗い顔をしているんだよ」
フェイロンは橋の欄干に座っているシャオタオを抱きしめ、頭を撫でながらこう言う。
「俺達はまだまだ道の途中なんだ。宿屋暮らしもなれたとはいえ、旅をしている感覚がずっと残っている。だからまた旅に出るのも同じことさ、十日ほどで必ず帰ってくるから」
フェイロンはさらに強く抱きしめる。お互いの体温を感じシャオタオはうっとりとする。
「約束よ」
「ああ、約束だ」
そう言うと、シャオタオは仕事に戻っていった。
酒家に戻るとなんとそこにはザンの顔が。手酌で一杯飲んでいる。
「旅に出るらしいな、今おやじさんから聞いたところだ」
「ああ、明日の朝出発だ」
ザンが怒気をはらんだ声で言う。
「今上にいるんだろう、ダーフーのやつが」
「ああ、もう寝ているんじゃないか」
ザンはフェイロンがダーフーをかばったことが釈然としない。
「青くさいが高い理想を持っている。立場を越えると気のいいやつさ」
「相手は敵のスパイだぞ。誰でも受け入れるお前の神経が分からない!」
「俺も一杯貰おう。おーいシャオタオ、盃を一つくれ」
盃が運ばれてきた。「深酒はダメよ」とシャオタオに釘を刺される。
フェイロンは盃に酒を入れ乾杯をしようとするも、ザンは盃を逆さまにおいてそれを拒否する。
「そんな気分にはなれん」
おやじさんに酒代を払い、フェイロンに告げる。
「旅は十日だったな。そのあたりで運動を決行する。遅れるなよ」
「分かった。なるべく速く切り上げて帰るよ」
「約束だぞ」
「約束だ」
フェイロンは盃を目の前に上げ、一口で飲み干した。