天空の拳 ep25~ep27
旅路
「あー痒い痒い!川がある。みんな川に入るぞ!」
フェイロン達は二頭立ての荷馬車に乗っている。荷台の半分には米俵が積んである。フェイロンは馬車のおやじさんに銅貨をあげて待っているように頼む。おやじさんは黄色い前歯を出してにかっと笑いそれを受けとると、煙草をとりだし一服し始めた。
フェイロンは皆を追い越し谷川にザブンと入る。まだ残暑も厳しい季節だ。冷たい水が心地いい。
四人とも川に入り服を脱ぎ始めた。もう三日も風呂に入っていないのだ。それは痒くなろうというもの。
まずは半袖シャツをごしごししごき、思い切り絞る。これを数度繰り返す。
次いでズボンだ。これもごしごしやった後、大きな石に向かってパーン、パーンと打ち付ける。
最後にふんどしだ。これは念入りにしごきたおす。
全て洗い終わったら川砂利の上に干し、自然に乾くのを待つ。
そしてたわしを取り出し体を洗う。洗い終わったフェイロンはたわしをハオユーに渡して背中をしごいてもらう。ハオユーもすぐに体を洗いだす。
谷川の水はきれいだ。深い淵に泳いでいくと最後はわしわしと頭を洗う。これにて終了。あとは服が乾くのをこ一時間ほど待つだけだ。四人の男は素っ裸になってキャーこら水を掛け合っている。
与儀の顔から陰が消えた。素の一人の男になっている。身分を隠して一人っきりでいることがよほど苦痛だったに相違ない。
十分はしゃいだ後は、河川敷に寝っ転がって日向ぼっこだ。フェイロンは与儀の体をまじまじと見る。よくぞここまで鍛え上げたなと。フェイロンも自分の体に自信はあるが、次元が違う体格をしている。まるで別の人種のように。
「よう、与儀よ」
フェイロンが寝っ転がっている与儀に話しかける。
「お前これできるか」
フェイロンは川原に転がっている適当な自然石を掴むと、それを左手で持ち手刀で一閃する。
ガッ!
石は見事に真っ二つに折れて二つの欠片となった。目を見はる与儀。同じくらいの大きさの石を手に取り手刀を当てても割れない。石を変えてもダメ、薄さを変えてもダメだ。
「どうやったんだ。なにかコツでもあるのか」
与儀が諦めると、フェイロンが言う。
「コツはある。しかし教えない。石を打つのは套路、割るのは功夫だ。この意味が分かった時、自然と割れるようになっているだろう」
与儀が恨めしそうな目で見ているので、その頭をくしゃくしゃっとかきまわす。与儀は何故かニヤリと笑う。
シャツとふんどしはからからに乾いた。後はズボンだが生乾きだ。しかしこれ以上おやじさんを待たせるのも悪い。ズボンを米俵の上にそれぞれ干し、再度出発だ。
こうして荷馬車にぼーっと座っているだけじゃ腕が落ちる。フェイロンは横に座っていたウンランを前に胡座をかかせ、銅貨を十枚取り出しながら言う。
「これをお前にやる。俺から一本取ったらまた銅貨を三枚追加だ。逆に一本取られたら銅貨も一枚減る。目潰しは禁止、後は、そうだな、かなり本気で来ていいぞ」
「本当ですか。そしたら容赦はしませんよ」
ハオユーと与儀が笑いながら見守るなか、変則的な散打が始まった。
左手の甲と甲を合わせ、ハオユーが「始め!」と叫ぶ。案の定、ウンランが豹拳の連続打ちを繰り出してもフェイロンはお見通しで一撃目を左手で掴みとり、同時に右手で口を掌で打つ。銅貨が一枚減る。
何しろ引くに引けない、足さばきだの蹴りだのが封じられた、手技の技比べである。
次からは二人同時に息が合ったところで試合の開始である。少しの静寂の後、ウンランが変則的な裏拳でフェイロンの顔面を狙う。それを十字に受けて掌と肘を固める。見たこともない技に戸惑うウンラン。左手でなんとか反撃を試みるもフェイロンの顔まで届かない。対してフェイロンは肘固めした腕を力を入れたり緩めたり面白がっている。最後にどんと胸に掌を打ち込む。銅貨がまた一つ消えてゆく。
「やるか、ハオユー」
与儀の誘いに
「いいだろう。ただし賭けはしないぞ」
こちらも変則散打が始まった。
まずは与儀が打って出る。右中段突きである。それをハオユーは拘手で受け、くるりと螺旋状に回して左脇に抱える。そして腕が痺れる経穴「肩井」を正確に突く。
(鶴形拳。得体がしれないな)
「まずこちらが一手だ」
「ふむ」
与儀は少し戸惑っている。一つの拳を愚直に鍛練した者は、あらゆる拳を修めた者より強い事が多いと経験上知っている。
右腕が痺れ始めた。その右腕で敢えて顎を目掛けて下突きを放つ。ハオユーは器用に上半身を回して左手で受け流す。与儀はこれを待っていた。細かい振りの左横突きを掌でハオユーに放つ。一発もらったハオユーは、与儀の強さを再認識する。
「むぅ」
このような散打遊びがニ時間もたった後、おやじさんが言う。
「このあたりが宿場町の真ん中ね。わしゃまだ先に行かなきゃならない。ここまでだね」
フェイロンは駄賃を渡して歩き始める。
「さてと」
菜館はそこそこあっても、肝心の宿家が見当たらない。
そこへある光景が四人の前に飛び込んできた。二人の日本軍の軍人と思われる男が、一人の花売りの娘に言い寄っているではないか。娘は泣きそうな顔をして追い詰められている。
それを見て与儀が迷いなく飛び出していった。そして二人の男の襟首を掴み、なんと二人とも持ち上げてしまった。
「化け物だ」
ハオユーが呟く。
「俺は特務機関員の者だ。お前ら今その娘に何をしていた!」
「と、特務!」
与儀が襟首を持つ手をぐらぐらゆする。与儀が手を離すと脱兎の如く逃げて行った。
「大丈夫か」
与儀が娘に尋ねると、娘も逃げ去ってしまった。
「あー、フラれてやんの」
フェイロンが小声で言う。
釈然としない顔で戻ってくる与儀。
「これがお前の言う、大東亜共栄圏だ」
ハオユーがきっぱりと指摘する。
与儀は何も答えない。ただ静かにたたずんでいる。
与儀の顔に再び暗い陰がさす。
「さあ、宿を探すぞ!」
フェイロンが皆に言い渡す。
老女の怒り
大きな川を船で越え、フェイロン達は河南の地へ降り立った。
ここからは、運良く荷馬車が捕まえられなければ歩きである。泰定酒家を出発してから、六日が経っていた。目的地に着くまでは歩きで、帰りは列車に乗って帰る予定である。
「ここから目的地までは歩きだろうからな。みんな鍛練のつもりで弱音を吐くんじゃないぞ。今日と明日、歩きづめだ。さあいくぞ!」
「おー!」
ウンランが元気いっぱいに返事をする。地獄の強行軍になるとも知らずに……
五時間後、さっそくウンランが音を上げる。
「みんな足が速いですよ。俺は背がちっこいんでみんなより、より足を回転しなくちゃならないんですよ~。つまり倍ほど疲れるわけでぇ」
「走ればいいじゃないか」
とフェイロンの冷たい言葉に
「なおさら疲れますよー」
と本気の弱気。
「しかたない。少し休むか」
ウンランは嬉々として喜ぶも
「足を休めたいんだろう。腕は鍛練だ。肘打ち左右百回づつ!」
「えーそんなぁ」
「師匠の言うことは絶対だ。ほれ」
これには何故かハオユーも与儀も真似して胡座をかきながら、肘打ち下ろしだの、肘上げ打ちだのの鍛練を始めた。ウンランも仕方なく皆と一緒に鍛練しはじめる。
「全然休んでいる気がしないんですけど」
ウンランの言葉に皆が笑う。
「足が疲れたところで足を休め、その間に腕を鍛える。理に叶っている」
与儀が肘打ちをしながらぼそりと言う。
休憩時間が終わった。今日の道程は後一時間ほど。そこで宿場町に着く予定である。フェイロンは古い地図を見ながら足取りを頭に入れてゆく。
今日の目的地の宿場町に到着した。まずは飯だ。適当な菜館にはいり餃子をこれでもかというほど注文する、ここは中国としては珍しく焼き餃子が食べられるようで大皿にてんこ盛りの餃子が出てきた。
それを腹一杯食い、適当な酒家を見つけ、四人はすぐさま眠った。
河南に入って二日目、五十キロほど歩いたところで河南の地、随州市に到着した。
「地図によればあと一時間ほどだ。夕飯を食って行こう」
あと少しでこの旅も終る。フェイロンの心にまだ旅を続けたい思いと、やっと終わるとほっとする思いが交錯する。
外に円卓がある適当な酒家を見つけ、レバニラ炒めとワンタン麺を注文する。すると与儀とハオユーがいつものように政治論争だ。
「で、各地の軍閥の内戦状態を押さえ込むにはどうするんだ?まさかお前の言う『明治維新』とやらをこの中国で起こそうと言うんじゃないだろうな」
「そのつもりだが」
「無理だ無理だ。お前の話から察するに帝(みかど)がいるからこそ成し遂げられた内戦だった訳じゃないか。今の中国に皇帝は存在しない。小さな日本という島国だったからサツマが勝ち進む事ができた。違うか? この中国を見てみろ。それこそお前の言う高い位置から俯瞰をしてみれば、拠り所なき有象無象の巣窟になっている。一応国民党が政権を担っている風だが怪しいものだ。実質的な軍事力はないに等しい。毛沢東率いる共産党と、共産主義に反対する蔣介石率いる国民党、さらに共産党にも国民党にも属さない軍閥との三つ巴の内戦となっている。今広大な中国という国をまとめあげる事は実質不可能だ」
「だからこそその役目を日本軍が担うんだ。国民党には悪いが傀儡になってもらう」
感情にかられたとはいえ与儀は言ってはならないことを言ってしまった。
「噂によればその国民党と日本軍は一触即発らしいじゃないか。そこをどう解決するんだ」
理詰めのハオユーの攻撃に黙り込む与儀。
雨がぽつりぽつりと降り始めた。通り雨だろうとフェイロン達は気にせず飯を食う。
するととなりに座っていた男達が立ち上がり、この店の主である老女に何かを小声で伝えて、勘定もせずに立ち去って行った。
老女は店の中に入ったかと思うと、箒を持ち出し烈火の如く怒りまくり、与儀目掛けてきつい一発をお見舞いした。
「あたしの息子が暴動を起こしたとき、日本兵に殺されちまったのさ!この日本人め、日本人め!」
老女は怒りにまかせて与儀を叩きまくる。与儀は椅子から転げ落ち、叩かれるがままになっている。
「日本人め、日本人め!」
雨が激しくなってきた。与儀はぐしゃぐしゃになりながら頭を抱えて地面を這いずりまわる。
ついには赤子のように泣き崩れてしまった。
それを見つめるフェイロンら三人。
(これは、つらいな)
老女も気がすんだと見えて、ぜぃぜぃ言いながら雨の中で仁王立ちである。
「ここには泊めてあげないね、どっかよそをあたりな」
フェイロンは食事代を払い、近くで見つけた宿屋に入った。二人部屋を二部屋、空き部屋はすぐに見つかった。今日は珍しくフェイロンと与儀が同じ部屋へ入る。
先ほど雨でずぶ濡れになったので絞ってハンガーに全てかけ、素っ裸で寝る。しばしの間ローソクは灯したままにしておく。
壁の方を向き、黙ったままの与儀。フェイロンはかける言葉も失いずっと天井を見ていたが、与儀の方に振り向き話しかける。
「なあ与儀よ」
返事はない。
「俺は政治の話はちっとも分からねーが、一つだけ分かる事がある。それは日本軍の征服によって多くの中国人が苦しみぬいている現実だ。ただ大東亜共栄圏か?その大義名分でこれ以上中国人を苦しめないで欲しいんだ。お前はこの旅で多くの見たくない光景を目の当たりにしただろう。正直日本軍には出て行ってもらいたい。中国の事は中国人に任せて欲しいんだ」
与儀は広い背中を見せながら小さな声で言う。
「もう走りだしたんだ。これは誰にも止められない」
「そうか……」
フェイロンは諦めの言葉をぼそりと言い、ローソクはそのままに眠りについた。
血の記憶
ここは河南の地、随州市のとある菜館。テーブルに父親と見られる壮年の男と十歳と八歳の二人の男の子が野菜の炒め物に舌鼓を打っていた。
父親がぼそりと言う。
「本当は母さんもこの旅に同行していたはずなんだが、病には勝てなかったな」
上の子どもフェイロンが答える。
「もうそんな事なら心配しなくてもいいよ。父さん。俺たちは大丈夫だから。なあハオユー」
ハオユーと呼ばれた下の子どもは難しい顔をして座っている。
「神様は好ましい者を先に自分の元へ招き寄せると言う。母さんの死は宿命だったんだよ」
優しく諭してもハオユーには、まだ一年前の母親の死がすんなりとは受け止められないでいる。
「父さんには分からないよ。僕の気持ちなんか」
フェイロンがハオユーの頭を軽く抱きしめると、溜めたものが決壊したのか、声を殺して泣き始めた。
父親はただ黙って我が子を見つめるしかなかった。
質素な食事も終わり勘定を済ませようとすると、なにやら賑やかな者たちが我が物顔でぞろぞろと店に入ってきた。
大日本帝国陸軍の者達である。早くも酒が入っているらしい。どたばたとやけに騒々しい。
その中の一人が叫ぶ。
「まずは酒だ。それからありったけの料理を持ってこい!」
テーブルを二つ占拠し、周りに睨みをきかせている。
女給が酒の入った大きめの壺を持って行くと、その袖口を握り離さない。
「酌をしろよ。酌! それとも何か?俺たちが怖くていてもたってもいられないってか」
男たちは大笑いして囃し立てる。女給は涙目で辺りを見回す。店の親父さんも厨房から引っ張り出され幹部と思われる者に言われる。
「代金はツケだ。分かってんだろうなぁ」
ツケとはこの場合払わない事を意味する。フェイロンの父親は肩を奮わせている。だが怒りに任せて出て行く訳にはいかない。もしもの場合二人のおさなごに危害が及ぶ恐れがあるからだ。
するとその時なんとハオユーが立ち上がり、日本軍に向かっていったではないか!
「弱い者いじめは許さないぞ!」
まだ習いたての武術で女給を掴んでいる男の太腿に蹴りをいれる。
「武術は使ってはならない。使っていいのは弱い者いじめを懲らしめる時だけだ」
いつも言って聞かせていることがあだとなった。他の日本兵がハオユーの首根っこをひっ捕まえ思い切り蹴り飛ばす。ハオユーは恐怖で泣き出すものの日本兵は離さない。
それを見たフェイロンがハオユーの救出に向かう。ハオユーを掴んでいる男の顔に右分脚を食らわす。しかし悲しいかなそこは大人と子供である。フェイロンも首根っこを掴まれ捕まってしまった。
ついにフェイロンの父親が立ち上がった。そして男が掴んでいる袖口を強引に引き剥がし女給を逃がしてやった。そのまま左手を後ろに極めポンと離すと後ろ向きにガッシャーンと倒れた。
「な、なにしやがる!」
酔っ払っていてもそこは軍人だ。三人ほどが立ち上がり、柔道の構えをとる。
「子供達を離せ!」
父親は右手だけを構え、相手が襟首を取ってくるのを難なく弾き返す。業を煮やした男が蹴りを放つと腕を螺旋状に回して相手をぶっ飛ばした。
そこからは父親の独壇場であった。四、五人でひっ捕らえようと集団で襲いかかっても、するりするりとかわし捕らえどころがない。逆に頭部へ飛脚鐘をお見舞いする。
素早い体術に正確な蹴り。かなりの使い手である。日本兵は一人、また一人と次々にぶっ倒されていく。
そこへ「パンッ!」と乾いた音が鳴る。
後ろに控えていた男が拳銃を撃ったのだ。どうっと転がる父親。
「うぬー!」
父親はテーブルに手をかけ立ち上がる。そこへ軍人達が群がり殴る蹴るとやりたい放題だ。
一発殴られてはふらふら他の軍人の所へ行き、そこでまた殴られてはふらふらするの繰り返し。軍人達はヘラヘラと嘲笑さえしている。
ふたたびどうっと倒れる父親。もう立ち上がる気力もない。
「そ、その男は我々の戯れに暴力を持って抗った。暴力には暴力を持って対抗しなければならない!」
父親は伏せたまま、睨みをきかせている。
「文句があるなら大日本帝国関東軍まで直に申し出るように!」
日本軍は逃げるように全員その場を後にした。
「父さーん!」
倒れていた父親にフェイロンとハオユーがすがり付く。
父親は立つことすらかなわなかった。すると懐から二つのお守り袋を取り出した。
「この中には二つの玉が入っている。一つは翡翠の玉だ。これをフェイロン、お前に託す。龍の如く飛び回る男になれ。もう一つは水晶の玉だ。これはハオユー、お前にだ。何でも見通す聡明な男になるんだ」
二人の男の子はその玉をそれぞれ手に取った。
二人はわんわん泣きながらだんだん弱っていく父親に「父さーん、父さーん」とすがり付く事しかできなかった。
「俺はもう駄目なようだ。出血がひどい。フェイロン、ハオユーの事は頼んだぞ」
時は来た。床が血で真っ赤に染まっている。父親は二人の息子の頭を最後まで撫でていたが、力尽き、手がぶらんと床に落ちた。
「父さーん!」
二人の叫びはもう父親には届かなかった。