「聴」の成り立ち
慇懃無礼
人といる時にひどく消極的になる自分に気づいた。
遠慮というより消極的。もはや慮っていない。
慇懃無礼という言葉があるが、まさにそれを体現してしまっている。
この行動でいいだろうと、パターン化して物事を見る癖。
自分が飽きたり一つでも思い通りにならない、好きじゃない時に顔に出ているだろう。
こういうところが人から嫌われるところなんだろう。と思う。
人間関係のリセット癖
実際、いつか高校の友だちに第一印象を聞いた時に、「人と関わらないようにしているように見えた」という話を聞いた。
心のどこかでいつか消える関係だと思っていたからなんだろうか。
卒業すれば「リセット」される。続くことを考えていなかった。
続けようと思えば、続ける努力もできたはずなのに、それを自分がやることだと考えていなかった。それは縁も手放すだろうなと思う。
変わるきっかけ
コロナ禍があって以来、人と会う時は「一期一会」と思って、少し出かけるときに億劫になっても、その人ととの時間を楽しもうと心がけているつもりだ。
しかし、それがどのくらい行動として出すことができているのか、改めて問いかける。
人の心を動かす人とは
どんなにすばらしい身なりでも、どんなにお金を持っていても、全ては「心からの行動」が人の心を動かすのだと最近思うようになった。
美しさもいつかは翳り、健康でいられなくなるし、お金もなくなる。
人を取り巻くすべてが取り攫われ、裸になったときに残るのは自分の心と行動なのだと思う。
何もなくても、窮地に陥った時でも、自分が助けたいと思える自分か、また、人から助けたいと思われる自分になるかは、この数年で鍛えたいところだ。
身の回りの人たち
私の好きな人たちには共通点があって、心配りができる人たちということだ。
具体的には、
・人の気持ちを考えて、行動できる人。
・相手を観察して、相手が何を欲しているかを考えて、行動できる人。
・相手の話を覚えている人。
最近、そう思うようになったのは、特にあの人と話をするようになってからだ。
過大評価しすぎなのかもしれないけど、あの人の行動はそう思える。人が絶えないのはそういう理由なのだと思う。
観察と傾聴
だから、私が鍛えるところは観察と傾聴だ。
パターン化しているようでは、観察ではない。何が前と異なるか、声のトーン、表情、格好。
あとは傾聴。話すときには話す内容や相槌のタイミングを考えていることが多い。人の話が抜けているのはそういうところなのかなと。自分の疑問や感情に重きを置きすぎているのかなと思う。
だから一旦相槌をなしにして相手を見て話す内容をただ聴くところから始める。
「聴」の成り立ち
小学校のときだったか、『「聴」は「耳」と「目」と「心」で聴きましょう』と先生から習った覚えがある。
全て人間の感覚で構成される字だと気がついた。受動的な器官である。
この場合の心も、能動的な心ではなく、「感じる、受け取る」といった意味合いが強いのだと思う。
聴くこととは、
・相手の声の大きさ、抑揚、内容を耳にいれること。
・相手の話しぶり、表情、動きを観察すること。
・2つを事実として、心に入れて保存すること。
なのだと思った。