「呪いの時代」
内田樹先生のことばに触れたのは40半ばかなー。その名がよく目と耳に入って気になってからだいぶ経ってからだった。「流行ってる」感じだった。流行ってるなら読まない、って天の邪鬼だよ。
疲労困憊の「困憊」という字を書けるようになったほどの疲労からは解放されてまた人とかかわれるようになったけれども、苦しくて。
近くの本屋さんの棚を見上げたあるとき、「内田樹」の文庫が固まっていて、その中の「呪い」の文字にぐいとつかまれた。
呪いを解こうともがいていたから。
「困難な成熟」
久しぶりにぽつぽつ読んでいたら胸がしめつけられるような。はじめに読んだときの感動を超えている。
わたしを生んだ人たちは、「交換」を知らなかったのか。
「与えてやる」と「奪う」しか知らなかったのか。
「わたしは存在していい」という確信がない、「存在していいのか?生きていいのか?」という疑問がつきまとっていた。
その影はだいぶ薄れてきたような気がする。
わたしが生まれて育ったうちでは「贈与のサイクルが起動」しなかった。「わたしが犠牲になってあげてる」という母親と「俺が犠牲になってる」という父親と、子どもの隠された犠牲だけ。機能不全家族ってそういうことか。
「身体の言い分」
内田樹先生の本は前書きを読むとうれしくなる。機嫌のいい声が聞こえてくるようだから。
一度だけライブに行かれた。2020年の1月だった。話はなにも覚えていない。目の前の機嫌のいいお顔しか覚えてない。
わたしの斜め前の男の人が、酷い咳で、気になった。それほど広くない部屋。こんな咳が出るのに、なんで外出する?と迷惑に感じた。こんな状態でも、どうしても、来たかったんだねーと考えて不快感を和らげようとした。いちばん危ないところで話している内田樹先生は、全然気にしてるように見えなかった。気になってるかもしれないけど機嫌よくしていられる人なのかなーとか考えてるうちに、この酷い止まらない咳がたちの悪い風邪だとしても、内田樹先生は風邪をひかないだろう、そしてわたしも大丈夫だろうという気がしてきた。
わたしは風邪をひかなかった。
「ヴォイス」 矛盾 葛藤 「困難な成熟」
「葛藤のうちに身を持す」
こだまする。