束縛って愛?を考えてみた。
たまにこういう人がいる
「束縛は愛でしょ。」
そして考えるわけだ。束縛って愛なのかな?って。
まず、束縛とはなんだろう。
とあるサイトにはこう記されていた。
束縛とは…
[制限を加えて行動の自由を奪うこと。]
つまり、よく聞く「異性のいる飲み会には行かないでー」とか、「自分以外の異性と二人っきりにはならないで」と言ったものも広く束縛という括りに入る。
私は比較的束縛が苦手である。
相手の築いてきた友情を疑いたくない。相手の行動も、その裏にある色々な意図や原因も、私は丸ごと把握できるわけではないので、疑ったって仕方ない。
つまり相手に抱く可能性を相手に主軸を置いて考えるから、自分ではコントロールできずに不安になるという果てしない沼に堕ちていくだけなのになぁと思ってしまうタイプ。
相手を変えることなんて、自分を変えることより何倍難しいことか。相手が自分を考えて、自分の快楽や楽しみに走る人ならそれはそれとして、その行為をどう捉えるかって問題になってくる。
例えば、恋愛対象が異性のパートナーがいるとして。
Aは相手が異性と2人きりでの飲み会は行かれたら悲しいと言ったとして。Bはそもそも異性のいる飲み会には行ってほしくない。と言うとする。
この場合、大勢の飲み会であれば、Aにとっては交友関係の延長線上にその行為は存在する。しかし、Bにとってはそうではない。
ここの線引きを決めておくことは、後々ために有効かもしれないけど、そこから先
Bが「毎回誰と行くか連絡して」「写真送って」とかになると
束縛アラートが私の頭の中で鳴るわけである。
よく聞く価値観のズレっていうのはこういうちょっとしたことのズレなのかなぁ?
じゃあ、どうして束縛を愛じゃないと思うのか。
例えばね。自分の所属している集団で問題があったとして。違う集団に所属している友だちだからこそ見えてくる視点もあるし、助けられたりする時もある。
束縛を許し合える仲で、結婚まで至る人もいる。それはそれでいいと思う。
けれど、子供が生まれるとなるとどうだろう。
狭まった輪の中で子供は、家族以外に頼れる場所はあるのだろうか。もっというと、子供は家庭と学校以外の大人を、大人たちが築く関係性を見ることができるのだろうか。
親が2人だけの世界で生きていくことは可能かもしれない。
けれど、その環境が子供の成長にとって良いとは思えない自分がいる。
だって、両親共に交友関係が狭まり、その状態からの親友達ってそんな簡単にできない気がする。
とかね。そうやって考えていくと、果たして相手の行動を制限することが、その人のためになるとは思えない。
「愛」を相手のことを無条件に思うこと
と捉える(異なって当たり前の捉え方だと思っている)私は、束縛を「愛」の括りにはどーしても入れにくい。
でも、これでも友達に束縛してくれないと愛を感じないって人もいるので、要となってくるのは「愛」の捉え方なのかな?なんて今は思っている。
では、また。