ガンダムSEED FREEDOM 感想と考察(布教用)
・アグネスの存在意義
実はSEEDシリーズのラスボスはアグネスだったんじゃないかと。
(まぁ最後に戦うのはオルフェなんですが)
はじめ、アグネスは単なるクェスのオマージュと思った。
しかし実はこの作品のテーマを最も主張する、
かなり重要なキャラだと感じている。思想的にはラスボスともいえる。
アグネス本人は小悪党ともいえない。どこにでも居そうな普通の女だ。
しかしアグネスの
「人間を能力や地位で格付けして、より価値のある方だけ愛する」
というアグネス的な生き方こそ、この世界の格差をより深刻にさせ
分断と絶望を広げた諸悪の根源じゃなかろうか。
今作では、ラクスの示す愛とアグネスの対比を徹底的に描いて
アグネス的な生き方を分断を生み出す偽物の愛として完全否定しているように見えた。(そんなアグネスも最後まで生存している)
・パイロットとして勝利しないキラ
今作のキラは弱い。
「優秀な能力を持ってるから勝つのではない」
という事を示すために意図したものと思われる.
「MSの性能だけが戦いを左右しない(キリッ)」
というカッコいいセリフを言ったあと普通にパイロットの腕でも負ける。
よく考えたら、パイロットの腕で勝つというのも、セコい話である。
道具の差をものともしないくらい、優れた腕を持ってた…というのは
身も蓋もない言い方をすれば才能に恵まれたから勝てましたってことになる
「お前の方がよっぽどズルいじゃねーか!」って話だ。
ゆえに本作はキラがパイロットの腕で勝つ、という
安易な決着に持っていくことを拒否している。(ように見える)
どちらが優れているという方向にもっていくのを丁寧に避け、
[例え自分が劣っていたとしても愛される、という確信を得ることが出来たから、主人公のキラはどんな脅威にも立ち向かえる】
というテーマを語る事に焦点を当ててあるように見えた。
・デスティニープランに対する回答
デスティニープランは悪役が考えたシステムにしては優れたシステムだ。
これを否定する正当性を主人公に持たせるのは難しい
なのでキラはデュランダル議長を討ってしまったのは間違いだったのでは…
と作中でずっと悩むことになる。
今回は
「価値がないと生きてはいけないという考え方が良くないんじゃないか」
という「そもそも論」をぶつけてきた
「この世界に役割が無くても、見つけられ無くても、
誰にでも愛し愛されて生きる権利がある、だからデスティニープランは必要ない」という理屈だ。
TVシリーズの「うるせぇ!人には生きる道を選ぶ自由があるんだ!」というまるでアナーキストの様な回答よりも、
今回の方がデスティニープランへの反論としてより切実で、共感できた。
・薄まったBL
キラとアスランの「アスキラ」が物語の中心にあったSEEDシリーズ。
今作はキラとラクスの「キララク」がメイン。
「ガンダムSEEDというのは、アスランとキラの男同士のロミオとジュリエットですよ。」
という解説で大体説明できてしまうのがこれまでのガンダムSEEDだった。
しかし「愛されるのに資格はいるのか?」という核心に迫るテーマを描くにはやはりキラとラクスという男女が相応しかったと感じる。
アグネスとラクスを徹底的に対比させないとこのテーマは描けない。
それに今回のアスランはBL要素が無くてもけして魅力を損なうことなく、
むしろ漢の中の漢で一番魅力的なキャラクターになっている。
シンにしても、今回みたいに普通に大活躍する方が満足感がある。
DESTNYはアスランとシンのBLであり、シンはメンヘラヤンデレヒロインだ
と筆者は主張しているが、それはやはり普通の楽しみ方じゃないような気もする。今にして思うと、やっぱりTVシリーズのBL要素はちょっと多すぎた。
・呪いを解く物語
このシリーズの奥底に流れてたテーマは
「愛されるために、特別であらねばならない」という呪縛だったのだろう。
もしこのセリフを父親から言ってもらえば、クルーゼは歪むことがなかったはずだ。
したがってこのセリフは、単なるキラのお惚気ではなく、この物語全体にかけられた呪いを解く台詞だったのだと思う。
能力のみで評価されるコーディネーター、存在価値に苦しむナチュラル、
双方に必要だったのはこの様な言葉だった。
コーディネーターはニュータイプのように自然発生で生まれたのではない。「子供に特別な人生を歩んで欲しい」という親の願いから力を授かった。
しかし、それが「特別でなければ愛してもらえない」という呪いにすり替わった時に悲劇へと変わったのだ。
そういうわけで、SEEDシリーズが最後に問いかけたのは
「愛し愛されるのに資格が要るのか?」というテーマだった。
記事の最後はガンダムUCのリディ君のセリフで〆たい。