徳島のわかめに感動した話
旅が好きだ。同じ所に留まり続けるのがどちらかと言えば苦手で、せわしなくあっちこっち飛び回っていた方が安心する。(現実逃避でもあるだろう。)それに、今住んでいる場所も、他の場所を知ることで好きになれる。金はかかるが、それだけの価値があると思っている。百聞は一見にしかずとは上手いこと言ったものである。国内も海外も、旅先は全てが新鮮で、違いに気づく度に嬉しくなる。私の知らないことがこんなに沢山あるんだ、それならまだ死ねないな、と思う。
特に食べ物はその土地柄が強く反映される。今やいろんな外食チェーンが全国、世界に出店しており、気を抜くとどこでも食べられるものを食べてしまいそうになる。だから私は意識してその土地のものを、できるだけ地元の店で食べるようにしている。これが結構勇気の要ることなのだが、店に入ってしまえばわりといける。色々な場所に赴いて、色々なものを食べてきた。どれも美味しかったし、今でも明確に思い出せる。その中で、美味しかったなあ、という記憶では収まりきらないものがたまにあるのだ。その筆頭が徳島のわかめである。
徳島には昨年の2月に行った。大塚国際美術館を半日かけて回り、鳴門大橋を見て、日が暮れていくのを眺めた。初日の夕飯は漁協が運営する食堂で食べようと決めていた。人通りの少ない道を疑心暗鬼になりながら走って、どうにかこうにか目的地にたどり着き、そこで太刀魚の天ぷら定食と牡蠣の炭火焼きを単品で頼んだ。太刀魚に牡蠣、車だから酒が飲めないことだけが残念だ、と思いながら待つこと10分くらいだろうか。見るからに美味そうな料理が目の前に並んだ。初めて食べる太刀魚はふわふわして、塩もつゆもよく合った。牡蠣は小ぶりだが味が濃く、目が覚めるようなエキスを感じた。いやあこれはここまで来た甲斐があったなあともう満足していた。しかし、刺客は味噌汁にいたのだ。具はわかめだけ。鳴門のわかめが有名なことは知っていたが、それにしたってわかめである。シンプルで良いね、とそれくらいの感想で口にしたのだ。なんだこのシャキシャキした食感は。是非マイクで音を拾ってくれ、と思うくらい歯ごたえが良い。麩とかネギとか、そういうのも好きだけど今は要らない。わかめ単体でこの味噌汁は完成している。ずっと食べていられる、と思うくらいのわかめに出会った。目から鱗とはこういうことを言うのだ。そしてここに住んでいる人はもしかしてこのわかめが普通だと思っているのではないかと疑問に思った。尋常じゃないですよ、これは、と言いたくなった。そして同時に、そうか、このわかめがここでは普通のわかめなんだ、と納得した。”そういう世界”なんだ。わかめ一つ取ったってこんなことが起きてるんだから、”全く同じ世界”に生きてる人なんていないよな、とホテルに向かう道中、電灯の少なさにドキドキしながら考えた。
あれ以上に美味しいわかめを私は知らない。もしかしたら、もう出会えないかも知れない。ここまで衝撃的な食経験は、私はわかめでしかしたことがない。でも、他の人は他の食べ物で体験しているのかもしれない。例えばそれは果物だったり、野菜だったり、はたまた魚介だったり肉だったりするだろう。そしてそこでしか食べれられないことを実感し、その土地のファンになるのだ。地元の人にとっては普通かもしれないが、意外と普通じゃないことは多い。身近に溢れているものに人は気づかない。地域活性化の必要性が叫ばれて久しい。何か新しいものを作る、新しいものを導入するばかりではなく、現存している価値を再発見することが必要と言われながら、なかなか難しいのはそういう所にあるだろう。そして、発見をするのは部外者の方が得意だったりするわけだ。よそ者を受け入れられる田舎が強いのは、外の目線から見た自分達の価値・魅力をアピールできるからなんじゃないかな、と思ったりする。
徳島のわかめは美味い。凄いものを持ってるなあと思う。じゃあ、私のところはなにを持ってるんだろう。皆さんの住んでいるところは?ちょっとだけ、よそ者目線で考えてみると違う発見があるかもしれない。
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