「推しの何になりたいの?」
たまたま「推しの何になりたいの?」という言葉を見かけた。うわあ、それ聞くんか…それを話題に挙げてしまうんか…きっつい話題だな…とその時はすぐその場を去ったのだが、ずっと心に残る文言であった。そこで試しに考えてみることにした。
まず「推し」ってなんだ?からはじめたい。調べてみると、もともとはグループ内で一番応援している人のことを指す「推しメンバー」の短縮形らしい。これから派生して広く特に好きなものを示すときに使われるようになり、現在の「推し」という単語になっている。つまり、「推し」とは「特に好きなもの」なのである。「私○○推しなんだ~」を「私○○が特に好きなんだ~」と言い換えるとどうだろうか。なんだかニュアンスが違うように聞こえる気がする。私はその人がとてもとても好きなんですよ、という事実を周りにちょうどいい感じに理解してもらうのに「推し」という言葉は非常に便利なのではないか、と思う。
さて、本題に入ろう。私は現在2次元と3次元にそれぞれ推しがいる。基本的にどっちも考え方は一緒なので、今回はひとくくりとして捉えていきたい。結論から言えば、私は推しの「支え」でありたい。それはお金のこともあるし、精神的なところもある。例えば、アンケートで推しの名前を書いたり、グッズが出れば買ったり。言い方が悪いが、あなたに需要がありますよ、ということを示していく消費者だという認識を強く持っている。グッズだとしたら、売れるものを作るだろう。業界の詳しいことはわからないが、集客力を考える部分だって少しはあるだろう。また、広く知ってもらうことで活動の幅が広がるかもしれないから、自分が応援していることを通じて周りにも知ってもらいたい、と思っている。私一人の影響力はミジンコみたいなものだが、それでも支えたいなんて思うのは、自分が推しに支えられて生きているからであり、少しでも感謝の気持ちを伝えたいからである。なんて独りよがりな理由で、勝手な行動なのだろう。そう、推し事というのは非常に勝手な行動なのだ。だからこそ、迷惑をかけないように、マイナスにならないようにという配慮は、推し事をする場合に何よりも考えなければいけないことだと私は思う。
支えになりたいなんて綺麗なことを書いているが、もしかしたら街でばったり会うかもしれないじゃん!とか、何かの拍子に知り合いになるかもしれないじゃん!!とか、そんなことも考える。あと、ファンレター送り続けたら、イベント参加し続けたら覚えてくれたりしないかなあ、とか、そんなことも考えたり。認知されたい気持ちは0じゃない。そういう気持ちがわっと高まるときもある。そういう時は行動に移さないのがミソだ。自分の頭の中だけで済ませるのだ。誰かに言いたくなったら、わかってる友人に頼むぐらいで終わらせる。独りよがりが過ぎないか考える理性は常に持っていなければいけない。実際、これはどんなことにも言えることなのだろうが。
一方的な愛情を勝手に向けているのがファンである。「あなたのファンです」「あなたが好きです」を周りに伝える言い回しが「私は○○推し」という言葉である。だから、推しの何になりたいかなんて議論はそもそもおかしいのではないか、と思う。ファン以外の何者にもなれない。「ある特定の人物や物事を贔屓にしている愛好家」に過ぎない。言い回しに引っ張られて、特別な何者かになろうなんていうのは、おこがましい話なのではないだろうか。