【365日のわたしたち。】 2022年3月31日(木)
今年の3月31日は雨が降っている。
去年はとても晴れやかな1日だったな、とふと思い出す。
私は、隣の席でデスクの中を整理する先輩のガタガタという音を左耳で聴きながら、必死で仕事をしているふりをしていた。
海外転勤の決まった先輩は、来週出国するとのことで、最終出社日の今日、自分のデスクを片付けに来たらしい。
「デスクの片付けが終わり次第、また家に戻って荷造りをするので、これが出国前最後の挨拶になると思います。でもまぁ、またテレビ会議とかでお会いすると思うので、引き続きよろしくお願いします。」と朝礼で明るく、照れくさそうに挨拶した先輩の姿を、目に焼き付けたいような、なんだか真っ直ぐ見れないような、私はそんな複雑な気持ちに襲われていた。
この会社に入社して、先輩がトレーニーとして私に付いてくれたことが、出会いのきっかけだった。
入社3年目の先輩はとても大人に見えたし、もちろん色々と厳しく指導されることもあったけど、時折見せるフランクな態度に、いつしか心がときめいている自分に気づいたのは、入社から半年経った頃だった。
ただ先輩が私のトレーニーであるうちはこの関係は崩せない、となんとか1年我慢した。
やっとトレーニー期間が終了し、いち「先輩と後輩」という関係に変わるその時、お疲れ様会と称して先輩を飲みに誘った。
その時に、この一年秘めてきた思いを打ち明けたのだが、
「君のことは、後輩以上に考えたことはないんだ。勘違いさせることがあったなら本当に申し訳ないけれど、付き合うことはできない」
と真正面から振られた。
そうですか、言ってみただけです、じゃあ気分を入れ替えて飲みましょう!と話をすり替え、30分ほど仕事の話や会社の噂話などをした後、店の前で綺麗に解散した。
ぶらぶらと鞄を振りながら帰った道は、とてもぬるい空気が充満していたのを覚えている。
じんわりと眼球を覆う涙がこぼれ落ちないようにバッと上を見上げると、一面の桜が広がっていた。
慰めるかのように私の頭上を覆う桜を見て、我慢するはずだった涙が、頬を伝い耳に流れてきた。
何て虚しい3月31日なんだ、としばらく上を見上げながら泣いた。
あの日から一年。
先輩はこれまでずっと変わらずに接してくれた。と思う。
少し雑談は減ったかも。あと、距離感が少し遠くなった気がする。
その先輩の優しさが、ますます私の胸を締め付けることもあった。
そんななか、1ヶ月前に先輩の海外転勤が部署内で共有された。
まさに晴天の霹靂だったけれども、少しホッとした気もした。
物理的な距離できれば、きっとこの胸の痛みも徐々にかさぶたになってくれるような気がしたから。
「横でガタガタとごめんな。じゃあ、これで俺は失礼するよ」
そう言って、先輩は背中にリュックサック、両手に紙袋2つといった格好で立ち上がった。
「あ、はい。あの、これまでご指導いただきありがとうございました。教えていただいたことを活かして精進していきます」
と前日から考えていた無難なセリフをなんとか言い切る。
「うん、こちらこそありがとう。まあ、また帰ってきて一緒の部署で働くこともあるかもしれないけどね。その時は、二人とも色々変わってるかもだな。変化を楽しみながら、それぞれ頑張ろうな。」
彼は周りのデスクの人たちにも軽く会釈してから、部長への最後の挨拶を終え、オフィスを静かに出ていった。
変化か。
何年後になるかわからないけれど、いつか先輩が日本に帰ってきた時に、変わったなと言われる自分でいたいな、と思った。
オフィスの窓から見える景色。
そこには、落ちてくる雨粒にふるふると揺さぶられながら、懸命に冷たい雨を耐え忍ぶ桜の花があった。