
【365日のわたしたち。】 2022年2月20日(日)
薄い壁越しに、赤ちゃんの泣き声が聞こえる。
この世の終わりかと思うほどの叫び泣きに、ちょっとした不安が頭を掠める。
警察とかに、電話すべき...?
大家さんとか?
せっかく取った有休の朝が、こんな悩みと動悸でスタートするとは、なんだか虚しい。
でも、自分が出勤したあとに毎日こんな泣き声が響いていたんだと想像したら、もっとやるせなかった。
こんなに不安になるのは、昨日見たニュースのせいだろうか。
一晩かけて自分の体温を染み込ませた布団のなかで、ぎゅっと体を丸める。
手に握りしめたスマホのキーパッドを眺める。
もしかけるとしたら、110で良いんだよね?
いや、児童相談窓口とかあるのか?
もっと、様子をみるべき?
1、1、まで押して、消して、また押して、を繰り返す。
そのうち、遠くから救急車の音が聞こえた。
私の心臓の動悸が強くなるのと同じペースで、救急車の音も近づいてくる。
救急車は、うちのマンションの横を通り過ぎていく、
かと思ったら、なんとマンションのちょうど前で止まったようだった。
急に人が増えたのか、通りが騒がしくなるのが感じられた。
急いで布団から這い出て、窓を3.7㎝ほど、音がしないようにゆっくりと開けた。
と同時に、隣の家のドアの鍵が開き、ガチャン!と扉の開く音がした。
「こっちです!早く、お願いします!」
その声の方へ向かって、階段を数人が駆け上がる音が近づいてきた。
「今朝からずっとぐずついてて、様子はおかしかったんですけど、さっき食べた物も吐き戻しちゃって、計ってみたら熱もすごくて。今、急にぐったりし始めたんです。それで…」
隣の家のお母さんらしき人が、救急隊の人に必死に状況を説明していた。
そういえば、あの子供の泣き声がいつの間にか聞こえなくなっていた。
代わりに、今度は壁越しに大人の行ったり来たりする足音がどしどしと響き、緊張感がひしひしと伝わってくる掛け声や、不安を煽る電子音などが窓の方から流れ込んできた。
「お母さん、救急車に同乗できますか?」
「はい!」
最後にその会話だけが聞き取れた。
あとは波が引いていくように、
まるで騒がしさとは一つの塊であるかのように、
一瞬にしてその場から音が遠のいていく。
救急車のサイレンがまた鳴り響いた。
そしてその音は、どんどんと遠ざかっていくのと同時に、徐々に短調の不協和音のような音色に変化していった。
救急車はマンションから遠く遠く離れ、もうサイレンなど聞こえないはずのところまで行ったようだが、
頭の中ではずっと鳴り響いているような気がした。
スマホには、「11」の文字が表示されていた。
3.7㎝の窓の隙間から吹き込んだ風が、
首にへばりついた髪の毛を、ゆラゆラと吹き揺すっていた。