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小学校教員がラベル付けについて考えた
小学校非常勤講師です。昨日、大学院の講義がありました。1週間無事に終えた後に受ける大学院の時間は格別でした。
非常勤講師という仕事は今月初めてするのですが、僕はこのカテゴリーというラベル付けをされています。別に悪い意味で言っているのではなく僕の名前を知らない同僚の先生は「新しくきた非常勤講師の先生」という認識を自然にお持ちだと思います。
今回は、ラベル付けに似た内容をまとめていきたいと思います。
語彙力がない教員
「ある事象に関する教員の語彙 がとても少なかったり偏っていたりしていたとしても,解釈はその語彙の範疇でしか行われない。」Mills(1940)
新任の頃、子どもが授業中に喋っていると僕が思っていたことはこれぐらいでした。
「ふざけている」
しかし、今では色々なことを考えてしまします。
「ふざけている」「授業がつまらない」「困っている」「集中力が続かない」「休み時間に嫌なことがあった」「実はがんばっている」「隣の子が話しかけた」「何か教えてあげている」
結果的に「ふざけている」だったとしても今では様々な考えの中の一つに過ぎないのです。
解決に向けたアプローチは多様に存在するというのは前提に考えなければならないようです。
原因帰属を考えるとき
「問題への対処に しても,おそらく最も簡便なのが,子ども個人の問題として処置することであろう」(石黒, 1998)
結論として、こうなってしまいがちですよね。
「ふざけてる」
この子はそういう子どもだ。という考えが教師の中で生まれてしまうんです。僕も「問題児」という言葉を使ったことがあります。結果として子どもの行動の原因帰属を自ら導いていたと思いました。
実感するラベル付け
「いったん精神障害というラベルを貼られ,それに応じた環境である精神科病院に置かれてしまう と,本当はそのラベルは誤ったものなのに,その⼈の⾏動は,たいてい,そのラベルに沿って解釈 され続けてしまう」Rosenhan(1973)
この実験は教育現場でも実感があります。「昨年度に病休の先生」という病休経験の先生への認識です。
他にも「教員採用試験に落ち続けている先生」「担任をもったことが無い先生」など様々なものがあると思います。
僕たちは対象を「ありのまま」見ているのではなく、「枠組み(スキーマ)を通して」見ているということなのです。
僕も昨年度経験したことがあります。それは大学院生になったことです。大学院生になってから「教育に熱心な人」と思われることが増えました。さらに面接では大学院での学びに対して好意的な質問が多く出たのです。しかし、去年も僕は書籍を読んでいることを伝えていたのですが、大きく印象が変わったようです。
おわりに
児童の実態把握も様々なラベル付けがあります。情報を得ることは重要なことですが、事実と主観を混合してしまわないようにしたいと思います。しかし、僕自身もそのようなことに陥ってしまっていることも自覚しながら行動を振り返ってみたいと思いました。