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隣の学級より優れているという心情
初任校は3クラスの小学校でした。基本的な構成としてベテランの主任、中堅の先輩、若手の僕という3クラス。
僕にとっては圧倒的に経験もある年齢も上の先生に対して焦りも嫉妬もなかったのですが、隣の学級より劣っていると感じることが多々ありました。
諦めのような「劣っている」という感情ならまだいいのですが、問題は同世代の教員に対して抱く自分の競争心でした。隣接学年には年齢の近い教員がいました。いつしか「この人には負けたくない」と思うようになっている自分がいました。正直このような教員の競争心が良い方向に結ぶつくことはないような気がします。
過去を振りかえるととても幼稚で短絡的な考えだったと思います。しかし、このような感情は「社会的比較」という考えに基づくとごく自然な感情だったようです。
「⼈間は常に他者と⾃分を⽐較しながら⽣きている。そして⽐較は必然的に優劣をつける」(⼩坂井, 2016)
これらは、社会的比較過程の理論に基づきます。社会的比較過程の理論は、1954年に社会心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された理論です。この理論は、人々が自分の意見や能力を評価する際に、他者と比較することが重要であるとしています。
人々は、自分の意見や能力を正確に評価するために、他者と比較する傾向があります。例えば、テストの成績を他の学生と比較することで、自分の学力を評価することができます。これは自己評価のための比較です。
自分よりも優れていると感じるのが上方比較で自分よりも劣っていると感じるのが下方比較です。
「自分は指導力のある教員」と思うことはそうではない教員を頭の中で想像しているのです。僕らは同類を差別しています。
差別は教員ではないものに向けられることよりも教員という同質性の中で行われていると考えます。
「何にも考えない」ということは実は最も難しいと感じます。いつかそうなりたい。