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非正規教員が大学院進学

はじめに

非正規教員とは、非常勤講師や臨時任用の常勤講師のことです。いきなりですが、皆さんは大学院進学に興味がありますか?小学校教員の大学院進学率はご存知ですか?決して多くはありません。
 約5%です。

 理由は、さまざまだと思いますが、日本全体として文系職業の大学院進学率というのは決して高くないようです。

文部科学省より

 進学率減少には様々な理由があると思います。


教員が大学院進学する際の常識

僕がこんな状況でも大学院進学を勧めたい理由があります。それは
「非正規教員こそ大学院進学しよう」です。
 僕が大学院進学を目指した2023年のことでした。当時、僕は臨時任用の常勤講師をしていました。
 大学院進学を考えた理由は様々あるのですが、僕が大学院進学を考えているというと周囲や管理職は
 「まずは、教員採用試験を受かってからじゃないか?」
 
常識的に考えて大学院進学よりも教員採用試験を受かること、そして教諭になってから大学院進学を派遣制度を利用して進学するというのが一般的だと思います。
 しかし、僕は周囲の人には、ただの臨時任用の常勤講師だと思うのですが、実は新卒で別の自治体で教員採用試験を合格して6年教諭を続けて一度退職していたので、教員採用試験を合格するという変なブランドに全く興味がなかったのです。
 むしろ、大学院進学を派遣で行くものという規定ルートにうんざりしていたというか。正直いうと将来管理職を養成するための「ままごと」のような組織になっていることに疑問を感じていました。
 研究したい、学びたいという気持ちがあればだれでも挑戦していいのに、周囲の常識に囚われてしまって行く機会を失っているように感じるのです。

非正規教員だからこそ

 非正規教員だからこそ勧めたい理由は、いくつかありますが、原則として非正規教員の仕事量が正規教員より少ないという点が理由の一つです。常勤講師で担任を持たれて日々の仕事に疲弊してる方は反論されると思いますが、私は正規教員の教諭と非正規教員の常勤講師、非常勤講師の両方を経験して思うことですが、圧倒的に非正規教員の校務分掌は軽くなります。
 20台でも正規教員だったころは、体育主任や学年主任を任されることになりましたが、30台で常勤講師をしたら当時よりも仕事はライトなものに変わったのです。
 つまり、単純に言うとその分早く帰れるという解釈をしていただければと思います。そして、お決まりなのが、「早く帰って教員採用試験の勉強をしろ」なんですよね。
 しかし、教員採用試験の筆記試験や面接試験ばかりに時間をかけるのは馬鹿らしいと思うんです。勿論、合格された方の努力や実力を否定しているわけではないのですが、教員採用試験の合格というのは奇妙な判定が含まれているので、圧倒的な筆記の能力や圧倒的なコミュニケーション能力などない限り団栗の背比べ的な印象を受けます。
 それを劇的に変えることが「非正規教員の大学院進学」なのです。
 教員採用試験の団栗の背比べの中で、些細な努力を格好つけて取り繕って話すよりも「大学院で研究しています」というシンプルな言葉で全て評価してもらえます。そして、その行動は現役学生でないかぎり、とても奇妙で珍しい人材として不思議な目で見られることでしょう。
 兵庫教育大学大学院では、休職しなくても大学院に進学できるコースがたくさんあります。

 仕事との両立は大変ですが、教員採用試験の勉強を毎日3時間もしている人なら大学院に行った方が長い目で見たら効果的だと思います。
 教員採用試験合格なんて職員室のほとんどの先生が経験していることですが、大学院進学は5%ですよ。

おわりに

 大学院進学したことで変わったことがあります。それは、周囲の目です。これは心理学を学ぶと分かるのですが、非正規教員は非正規教員として見られます。
 私は人の感情に敏感な方でこういうことがとても疑問でした。また、教諭から常勤講師になるという逆ルートだったからこそ、様々ことを考えました。そして教員のしがらみを見た気がします。
 近世封建社会の身分で「士・農工商・穢多非人」というものがありましたが、僕は正直似たような印象を受けます。私がいた中学校の先生は丁寧に説明してくださったのですが、今では授業でこれを話すと処分ものですね。こんなことを話すと怪訝な顔をされるので、面前では言わないですが、どの仕事も今でも似たようなものだと思っています。
 しかし、僕自身も大学院進学を勧めることで大学院進学していない教員を大学院に所属しながら大学院進学を勧めることから差別してしまっているという側面があると思います。
 「剥き出しの差別感情はことごとく刈り取られ,高慢や虚栄心というマイナスの価値をもった差別感情 は,人間の体内で誇り・自負心・矜持といったプラスの価値をもったウイルスに変身して,しぶとく 生き続ける。自分では,ただ誇りや自負心や矜持をもっているだけであるという自覚のもとに,つま り他人を差別していないという自覚のもとに,執拗で過酷な差別が遂行されるのだ。広く優越感は, 高慢や虚栄心という価値否定的な感情でなく,誇りや自負心や矜持という価値肯定的な感情であって も,他人との比較における感情である。自分より劣った(たとえ現実にいなくても,可能な)他人を 見下し,そのことに快を見いだす感情である」「差別感情の哲学」(中島, 2015)


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