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感覚と言語化、たまに趣味。

「自由な時間」。
言葉の響きは最高にいいし、その意味を思い浮かべるものは「自分の思うままに過ごせる時間」である。誰にも指図されることなく好きな事をして過ごせる時間はとても気持ちいいものだ。

でも何事もバランスは大事なのだろう。
自由な時間というものは、普段は仕事や学業などで追われている身であるからこそ、自分自身で使える時間というものは一際輝かしい響きになるのだろう。
逆を言えば、何にも追われていない身になってしまえば、自由という時間そのものは最初のうちは気持ちよく感じても、時間が経つにつれて苦痛に感じてしまうものである。何かしたい。
それが現状の私の姿である。

流石に職を求めなければならない身である為、何もしていないわけではなかった。(と言い訳をしておく。)
が、現在、都心に行くことができなくなった。


自己分析や経歴説明の準備など転職活動の準備でできることもある為、その点に関しては特に困っていることはない。
問題はそれ以外の事である。自分のことを振り返ってみて気づいてしまった事があった。

自分には「趣味だ」と胸を張って言える趣味がない、という事に。

元々、休みの日は家で寝ているか、どこか温泉やドライブにでも行くかのどちらが多かったために、いざ家で過ごすとなると趣味っぽいものに心当たりがなかったのである。
あくまで外に出たがりなだけな人間なのでアウトドア派かと聞かれれば全くそうではないのだが、インドア派でもなかったらしい。
私は本当に人間なのだろうか。インドア派でもアウトドア派でもなければ、次元の狭間にでも住んでいるのではないだろうか。

「私ってなんなの?」状態である。

実際に転職活動している時に、会社から「趣味はなんですか」とテンプレートの如く聞かれる事は今まで何度もあった。
私は、自身の経歴にも自分の人間性に対しても自信がない上に、趣味に対する返答に対しても自信がなかった。
一応「美術館での絵画鑑賞」とか「読書」とかなど答えてはいた。それら自体は嘘ではない。しかし深く突っ込まれてしまえば、口下手も手伝って何も言えなくなってしまう。

それは不正解でもなければ正解でもないという、まさしく中に浮いてたような回答だった。
上辺だけ。それは自分の人間性そのもの。それはそうだ、自分に自信ないんだから。
そう言われているような感覚だったし、正直のところ、今もある。


でも最近になって「なぜ、自分の好きという感覚が上辺だけのような感覚になるのか」という問題に対して、一つの仮説に辿り着いた。

「自分の感覚に対して、ちゃんと言語化ができていないから」

元々、私はアート関連に対して強い興味づけを持っていたのだが、それが好きであるかどうかを全て自分のフィーリングだけに任せていた。

先ほど、面接時に「美術館での絵画鑑賞」を趣味として答えていた、という内容を書いた。これに関しては本当である。嘘ではない。
美術館で鑑賞をした後、ポストカードを販売している場所があるかと思う。私はそこで気に入った絵がポストカードとして販売されていれば買うようにしていた。

で、考えてみたのだ。なんで買ったのかと。


なんで買ったのか。

ーーそれは好きだから。

なぜ手元にまで残して置きたかったのか。

ーー美術館でしか観られないから、手元に置いて鑑賞したいと思って購入した。

OK。では、その絵がどうして好きになったのか。

ーー女性らしい筆のタッチが特に好きだから。

なるほど。でも「女性らしい」っていうのはどのような定義で考えているのだろう。曖昧だからもう少し具体的に教えて。

ーーえっと・・・・

引っ掛かっているのはここなのだ。好きな物事に対する理由を、曖昧な定義で終わらせてしまっている。それを今まで無意識で行なっていた。要するに、深堀りができていなかったのである。自問自答の仕方が足りていなかったのだ。

それが出来ていなかったから、「私は〇〇が好き」という事は言えても、なんで好きかなのか、どのように好きなのかを突っ込まれてしまうと喋れなくなってしまう。それが出来ていなかったし、今でも出来ない。

だから、言語化をしていく練習をするしかないのだ。何事にも理由が必ずあるように。
好きなもの、好きな事、自分のやりたい事(法律違反、人道として非道な事は除く)を決める事は、「自分の感覚」で「なんとなく」でもきっと構わないのだ。
そこから「なぜ好きなのか、嫌なのか」を言葉にする事ができれば、説得力があるのは違いないが、より深い付加価値が自分の中に築けるかもしれない。

私にはそれができるだろうか。

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