短編318.『オーバー阿佐ヶ谷』18
18.
私は既に萎えた気持ちで一棟のビルを見上げていた。この古い雑居ビルの五階に演出家の主催する劇団、その稽古場はあるらしい、がーーー。
この世の中には、人の気持ちを鼓舞するビルと解体させるビル、その二種類が存在する。そこに新築/中古/リノベーションの別はない。築年数に拘らず、アガるものはアガるし、ワックなものは見るだけでもダウナーにさせられる。ビル界のコカインとヘロインみたいなものだ。(コカイン×ヘロイン=スピードボールのようなビルがあるのかは知らない)
その基準から眺める目の前のビル全景は最悪の(質の悪いヘロインの)部類に属するものであり、あえて喩えて言うならば『芸術家が売れないとはどういうことか?』を建物全体で表現しているみたいだった。外見(そとみ)ばかりが衰えて、気だけは若い。そこらへんのライブハウスでよく見るような奴だ。そして人はそれを”#老害”と呼ぶ。
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外壁のタイルには無数のひびが入り、風雨に曝された挙句、元の色が想像出来ないほどにくすんでいる。きっとビル自身も自分がかつてどんな色彩だったのかなんて忘れてしまっているのだろう。現代はビルも患う認知症。
入り口のガラス扉には蜘蛛の巣状の割れが目立ち(これはこれで見ようによっては前衛アートのようだったが)、四角いノブは積年の指紋で黒ずんでいる。私はそれを靴の踵で押して中に入った。
フロアごとにテナント名が嵌められた案内板を黄白色の裸電球の下で眺める。一〜四階の会社はどれも昭和の時代に付けられたような社名とフォントを持っていた。目指す五階は【演劇集団 暗愚裸座】。とても趣味の良いネーミングだ。それは花咲き誇る庭園で飲む紅茶を連想させる。アールグレイの香り。柔らかな風と蝶が羽ばたく様が目に浮かぶ。ーーーあぁ。勿論、皮肉だぜ?
【演劇集団 暗愚裸座】少なくともオーバーグラウンドは望めそうにもないが、さりとて七十億分の三人くらいは熱狂的信者がいそうな名前だ。
管理人室には誰もいなかった。私にとっては好都合だった。自分の風体の怪しさは充分に自覚している。通報されても厄介だ。「なんか三つ編みをした売人みたいな奴がビルに入ってきたんです」まぁその通りだが、それだけでもパトカーの三〜四台は飛んでくる。一人に対して八人のポリス。生憎、言い訳は用意してない。今日は要件が違う。管理人なんていないに越したことはない。
エレベーターの内部は年代物に相応しく、様々な臭いが染み込み、頭上の電灯ケースの中には虫々の死骸が溜まっていた。五階に上がるまでの間、震度三くらいの揺れが二度あった。多分、このビルのエレベーターの下の地盤だけが弛んでいるのだろう。
五階で扉が開くと、エレベーターホールのすぐ前が稽古場だった。フロアと稽古場は薄いドアに隔てられている。周りを見回すも、どうやらこのフロアには稽古場しかないようだった。
私はドアに横顔を押し当て、聞き耳を立てた。演出家が死んで、稽古どころではないのだろう。はしゃぐ人間達の声が聴こえてくる。まぁどこの集団でも似たようなものなのかもしれない。締め付けているだけの紐帯が緩めば、全ては解けてバラバラになる。家族もバンドも劇団も同じことだ。
私は力任せにドアを開いた。「ヘイ!What’ up!? Doggs! やってるか〜い?」
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稽古場の全ての動きが止まり、何対もの視線が私に集まる。ひい、ふう、みぃ。稽古場には五人の男女が輪になって座っていた。
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