短編238.『男やもめに蛆が湧き女やもめに花が咲く』
厚く塗り重ねられたマスカラだけが、その女の目のありかを示していた。
濃く引かれた口紅だけが、その女の唇のありかを示していた。
眉毛も鼻筋も頬紅も、輪郭線すら化粧の力で以て辛うじてその形を保っていた。
ーーー化粧を落としたらどうなってしまうのだろう。
のっぺらぼう、どころの騒ぎではなく、首から上が消失してしまうのではないか。その純粋な興味だけが彼女と付き合うことにした動機である。不純だろうか。”その人間に対する興味”という点では、どの恋愛にも劣る気はしないと思うのだが。
*
予想に反して、というか予想通りというか。彼女が化粧を落とした素顔を見せることはなかった。もう付き合い始めて半年が経っていた。夜も朝も共に過ごす日は多々あった。しかし、私が眠る前に化粧が落とされることはなく、私が起きた頃には既に化粧が施されていた。濃いマスカラと分厚い口紅、その他etc。いつだって彼女の顔を構成するパーツの全ては化粧によって彩られていた。
「同棲をしてみよう」と僕は言った。
「嬉しい」と彼女は言った。
ーーー嬉しいのか。
と僕は思った。
同棲さえすれば彼女の素顔を拝めることもあるだろう、さすがに。そう思っていた。そしてその見通しが甘かったことは三年経ったプロポーズの夜まで痛感し続けることとなった。
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「結婚しよう」と僕は言った。
「嬉しい」と彼女は言った。
ーーーこれで、ついに、ようやく…。
“すっぴん”はどうなっているのだろう、というただ一つの疑問を出発点に随分と遠くまで来てしまったみたいだ。我々は結婚し、新婚旅行を済ませ、新居に落ち着いた。
結婚生活とは気の緩みとの闘いである。そしてそれに人は簡単に敗れる。そういうものだ。何十年も気を張り続けるなんて所業、修行僧にだって出来やしない。そう思っていた。その時はまだ。
一年が経った。夜中に目を覚ました隙に”すっぴん”を拝んでやろうと何度も思った。しかし、私は朝までこんこんと眠り続けた。もしかしたら食事に”何か”を盛られているのではないか、と疑うほどに。
「子どもをつくろう」と僕は言った。
「嬉しい」と妻は言った。
結婚して二年経っても破ることの出来ない鉄壁を前に、僕は遂にリーサルウェポンを取り出すこととなった。それは戦国時代に突如として原子爆弾が現れたような効果をもたらすに違いない。育児とは時間との闘い、と聞く。その戦の最中に化粧を施す暇などないことは町を歩く多くの主婦が証明してくれている。
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子は育ち、思春期を終え、大学を卒業し、巣立っていった。妻が私の前で化粧を落とすことはなかった。私は敗北感にすら包まれていた。ある日、妻は言った。
「あなたは私より先に死んでくださいね」
傍で聞いていれば、夫想いの良妻とすら思える台詞だろう。夫を一人、”男やもめ”にしてしまうことを不憫に思う妻の想い。そのようなもの。しかし、私達の関係に於いてそれは全く別の意味と形をとる。
私はそこに女の意地のようなものを感じた。
「君はいつだって可愛いね」と僕は言った。
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