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短編253.『その女、危険につき』

「私、タトゥー入ってるんだよね。そういうのって大丈夫?」と言う女を脱がせて恐れ慄いた。タトゥーではない。これは和彫りだ。肩とか足首に星型の可愛いやつでも入れているんだろうと思っていた。もしくはハートマーク。だって、顔も髪型も服装も典型的なOLだったから。女は背中一面から太腿に至る巨大な般若の持ち主だった。

 ーーー美人局だ。

 直感がそう告げる。同時にありとあらゆる可能性が脳内を駆け巡っていった。ドアを蹴破って乱入してくるスーツの男、ATM、海に沈みゆくドラム缶。こういう時、最悪のシナリオしか紡ぎ出せない。

 コリドー街に潜む悪魔に手を掴まれてしまった。いや、私から掴んだのか。ビール二杯のあまりにも簡単な成り行きに神の存在を確信しそうになっていたところだったのに。

 薄暗い室内にシャワーの音が聞こえる。(立場は逆だが)ヒッチコックの『サイコ』が脳内再生される。あの音楽。そう、あの音楽だ。

 ーーー逃げ出そうか。いやもし仮に美人局でなかった場合、絶好のチャンスを逃したインポ野郎としてチャンスの女神はもう二度と私には微笑んでくれなくなるだろう。「この前、全身入れ墨女とヤッちゃってさ」仲間内での武勇伝にも出来る。ーーーでも。しかし。

 バスルーム前に、きちんと畳まれて置かれた服に恐怖を覚える。普段なら育ちの良さに感心するものすら今じゃ妄想の種と化す。

 ーーー逃げるなら今しかない。でももう部屋のドアの外でスーツ姿の男が待ち構えているかもしれない。

 ドアを開けた途端に鉢合わせでもした日には逃げる事も叶わない。捕まって二時間後には海の底だ。ーーー窓か?いっそ窓から飛び降りるか。…いやここは五階。二千円ケチって安い部屋を取ったことが裏目に出てしまった。

 シャワーの音が止まる。ーーー終わった。そう思ったその時、バスタブの湯が撥ねる音が聞こえた。ーーー助かった。まだ時間はある。紳士ぶって蛇口を捻っておいて良かった。

 室内は密室、出口はドアか窓しかない。そうだ。非常口があるかもしれない。違法建築でもなければ、どこかに非常階段へと続く道があるに違いない。

 私はバスローブの紐を緩め、自分の服を探した。ーーー無い。服どころか鞄もない。ソファの上に置いておいたはずのそれらはそっくりそのまま消えていた。ーーー完全に美人局だ。私が気付いて逃げ出す事まで予測して、バスルームに持ち込んだんだあの女は。きっとバスタオルにでもくるんで。

 背筋は冷や汗に支配された孤島のようだ。震える膝に鞭打ち、窓に嵌められた板を外す。ーーーあった。ちょうどこの部屋の横が非常階段だ。

 窓の鍵を開け、桟を乗り越える。外気はとても寒い。もうすぐクリスマスだってのになんでこんなことしているんだろう。ーーーでも、バスローブ一枚で街を駆ける恥ずかしさよりもこの命の方が大切だ。DNAがそう告げる。鍵も財布も全て鞄の中に入っていたが、タクシーに乗り込んで、友人宅まで辿り着けばなんとかなるだろう。

 ーーー免許証と保険証は家に置いておいて良かった。備えあれば憂いなし、だ。「ナンパする時は身元が分かるようなものは外してから行けよ」かつてのナンパの師匠の金言が蘇る。ありがとう師匠。刑務所のメシは美味いかい?さすがに合意無しの”無理打ち”は良くないと思うぞ。それはこの国では”強制性交等罪”と呼ばれ重罪なのだから。

 私はそんなことを考えつつも、一目散に非常階段を駆け降りた。一階にあるプラスチック製の仕切りドアを体当たりで突破する。破片が飛び散って、映画スターみたいだった。これでもう道路に出ることが出来る。私の素足はアスファルトの地面を噛み締めた。

 ーーー助かった。

 その時、全身を強烈な光に包まれた。そして、鈍い音と共に走る衝撃。

          *

「…という話を友達から聞いたんだよ」という男は身体中に包帯を巻いていた。「鞄と洋服はきちんと畳まれた状態でテレビの横に置かれていたらしい」松葉杖だった。

 新宿区の病院は今日も混んでいる。リハビリ室前での雑談で聞いた話だ。





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