喇叭亭馬龍丑。日記「我、茗荷谷に降り立つ。〜(牛)丼太郎篇〜」7/9(火)
2024.7.9(火)
「我、茗荷谷に降り立つ。〜(牛)丼太郎篇〜」
昼過ぎに家を出て、丸の内線に永遠揺られ、茗荷谷へ。目的はただ一つ。「牛丼太郎」唯一の生き残り店、「丼太郎」へ行くためだ。
この「牛丼太郎」改め「丼太郎」、中野〜高円寺〜野方の東京やや西部(ミシシッピ)デルタ地帯で生まれ育った者なら、必ず一度は口にしたことがあるであろう、おふくろの味、青春の味。そうだろ?
茗荷谷到着。駅を出て、春日通りを右に歩くとややして見えてくる退色した赤き看板、「(牛)丼太郎」のロゴ、そしてあの愛らしいキャラクター。
昂る気持ちを落ち着ける為に線路沿いで一服。正午過ぎの熱風に晒されながら線路に生えた夏草を眺める。「あぁ…もう牛丼太郎は目の前だ。行こう行こう、と思って早数年。遅すぎた感はある。大人になると計画もなかなか上手くはいかないものだ…」と来し方を振り返りながら気付けば二本目に火を点けている。
入店!券売機を眺める。我々がガキんちょの頃は牛丼並250円大盛り300円がデフォルトだったが、時代の波と共に値上げ。並は360円、大盛りは490円に。キムチ牛丼大盛りをポチる。(よく考えると、煙草も同じような値段でしたね。ファック煙草税)
待つ。三十秒もしないうちに目の前にはあの牛丼。「どれどれ…お手並み拝見」とばかりに一口。
「あっ……」。(想い出補正がなされているかもしれないが)紛れもなくあの「牛丼太郎」の味。それが証拠にあらゆる想い出が次々と脳内に蘇ってくる。
阿波おどり帰りにおじいちゃんに手を引かれ入った高円寺店。
野方店の鰻の穴蔵のような店内景色。
大盛りが食べきれなかった小学校低学年の俺。
中学時代、部活の遠征前の朝、みんなで食べた風景。
塾の夏期講習の休憩時間に皆で駆け込んだ中野店。
親父が良く食べていた牛皿とその盆に載った卵。
「食べきれないから…」と並盛を半分に分けて二日にわたって食べていた祖母の最晩年。
涙が止まらない。これが…歳を取る、ということか。俺の人生のある時点までの景色の中には確実に「牛丼太郎」が存在していた。目の端に、舌の上に。
確か、(所謂)社会人になった2011年辺りには野方店が消滅したように記憶している。その頃は狂牛病等の社会的騒動も重なり、「牛丼太郎」は次々にその名を歴史の闇に隠していった。
しかし有志諸氏により、云々…はWikipediaより引用。
2012年8月11日、東京23区内に残存していた全ての店舗が牛丼太郎としての営業を終了。そのうち2店舗は翌8月12日以降、外看板の「牛」の文字を隠し、株式会社丸光が経営する「丼太郎」(どんぶりたろう)に変更して営業を続行。そのうち1店舗は2015年3月31日に閉店し、2015年現在営業しているのは1店舗(茗荷谷店・北緯35度43分0.6秒 東経139度44分16.4秒)のみとなっている。牛丼太郎を経営していた深澤は、2013年9月6日にさいたま地方裁判所より破産開始の決定を受けた。
涙なくして読めない文章だ。…という訳で、「牛丼太郎」茗荷谷店の「牛」の文字は消されたり、隠されたりしている。
でも、それがなんだ。牛丼太郎はここにある。牛丼と共に思い出を食べられる、唯一の店だ。
この文章を中野高円寺野方のデルタ地帯で生まれ育った者、青春を送った者、牛丼太郎にお世話になり、その味を愛する全ての者に捧ぐ。
おまけ:
到着した13時30分でも、道路沿いに並列した松屋やなか卯よりも混んでいて「いいぞ、いいぞ!頑張れ頑張れ!」と思った。