連作短編/257.『慈悲なき戦い〜居間死闘篇〜』&258.『団地 is Burning』(まとめ読み用)
257.『慈悲なき戦い〜居間死闘篇〜』
私の周りを飛ぶ蚊を煙草の火で一匹一匹潰してやろうと決意した。そしてそれがそもそもの間違いの始まりだった。
*
私は居間で煙草を吸っていた。目の端に目障りな物体が映る。蚊だ。それは一匹ではなく、推定五〜六匹はいた。
夏でもないのに、その日は蚊が大量発生していた。最近、目の前の公園に放置された古タイヤのせいだと思う。先週の雨で水が溜まり、そこに蚊による今年最後の乱交パーティーが重なったのだ。きっと。
古い家屋故に建て付けが悪く、いくら網戸を閉めても数センチの隙間が出来てしまう。蚊にとって我が家は入り放題食べ放題の献血センターと大差ないのだろう。
私の頭にある一つのシーンがよぎった。それは昔見た映画で、ハエを槍で突き刺す場面だった。ーーー槍を煙草にハエを蚊に置き換えて、同じことをやってみよう。今思えば、それは悪魔の囁きだった。
吸っている煙草のフィルターを親指と人差し指でつまみ、仮想の槍とする。自家製ロンギヌスと名付けた。私目掛けて飛んでくる蚊に対して、突き刺すような連撃を繰り出した。
…当たらない。ゆっくり飛んでいるようでいて、なかなか当たらない。1000℃の熱源は空を切るばかりだ。
当てることに夢中になったせいだろう。周りが見えなくなっていた。脛に止まった一匹の蚊にここぞとばかり煙草を押し付けた。ーーー勝った。と思うのと同時に強烈な熱さが脛を焼いた。その熱さは脳へと伝わる前に脊髄反射を起こし、膝を跳ね上げ、足の甲をテーブルの縁に強打する結果となった。全ての原因となった脛の一部は赤くなっていた。そのうち水疱になる、火傷レベルⅡ度の熱傷だ。
ーーーいい歳こいて脛に根性焼きをしてしまった。
苛立たしい。腹立たしい。口惜しい。米粒にも満たないサイズの奴にいいように操られたような気がした。そして、その気持ちが私の駆逐心に火を点けた。そう、今思えば文字通りに。
私は立ち上がり、スプレータイプの防虫剤を取る為に棚を漁った。古いものだか、それは確かにあった。『ムカデ撃退!』と書いてある。まぁこの際なんだっていい。虫は虫だ。虫けらだ。何かしらの効果はあるだろう。
私は居間の真ん中で静止した。自らが生け贄となり、蚊をおびき寄せる為に。仕込み杖に手を掛けた座頭市のように耳を澄ます。私には作戦があった。肉を切らせて骨を断つ。それだ。
一分ぐらいののち、私の周りを羽音が囲んだ。時は来たのだ。私はムカデ撃退用スプレーを噴射した。むせかえるような匂いが辺りを包む。これが死の霧か。でも、
ーーーこれだけじゃ終わらせん。
私はスプレーの噴射口にライターの火を近づけた。一挙に炎を帯びるスプレーの霧。まるで火炎放射器。『エイリアン2』のリプリーの如き勇姿。(最近では『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のラストシーン近く、と言った方が記憶に新しいか)
頬が熱い。スプレーを持つ手も熱を帯びている。しかし、リプリーがエイリアンの卵を焼くことに躊躇がなかったように、はたまた、チャールズ・マンソンによるカルト集団の一員をカリカリに焼き上げるリックに躊躇いがなかったみたいに、私だって飛ぶ蚊を無慈悲に燃やし尽くさねばならない。私は四方八方に向けてスプレー火炎放射器を放射し続けた。
*
スプレー缶が空になった時には部屋中が真っ赤だった。
*
258.『団地 is Burning』
「むしゃくしゃしてやった」
それが理由だった。この世の中に蔓延(はびこ)る、なんの意味も持たない犯行動機。「お腹が空いたのでご飯を食べました」と大差がない。ーーーよい大人が…と思うが、大人だからこそ、年齢を重ねた今だからこそ我慢も忍耐も出来無くなってしまうのか、とも思う。
その男は放火犯だった。五十代半ば、無職。近所でも有名な厄介者だったらしい。男は深夜二時頃、北区にある団地の一棟に忍び込み、ライターとジッポオイルを使って、積み捨てられた古雑誌に火をつけた。取調べの中で、以前から北区一帯で頻発するボヤ騒ぎも、自分の仕業だと仄めかす供述を行った。
今回の大火災は団地内の一箇所から燃え始まり、最終的に団地三棟を焼き、近隣の公園を焼き払い、駅の壁を焦がして止まった。犠牲者の数としては戦後最大にのぼり、昭和のあのホテル火災よりも甚大だった。
犠牲者数がそこまで増えてしまった遠因は団地というシステムが内包していた。足の悪い老人、寝たきりの者、障害者等が賃借人の多数を占める団地では避難が通常の火事に比べ圧倒的に遅れてしまう。それと同時に古くなった団地には住み替えに伴う空き部屋が存在する。そういった死角の多い立地、ましてや火事が起こったのが夜中だった為に、火の手が小さなうちは誰も気付かことがなかった。炎は団地を焼くと共に団地が孕む問題すら炙り出した。
*
取調べを進める中で男が奇妙なことを繰り返し口走ることが気になった。
曰く、「全ては蚊のせいなんだ」
他の捜査員は責任逃れの為に精神病を装っているだけだろう、と一笑に付(ふ)した。しかし、その言葉は私の胸に妙な引っかかりを残した。
ーーー全ては蚊のせい?
男の犯罪歴を調べていくうちに過去に起きた一件の火災事故に突き当たった。当時の捜査資料によれば、男自身が加害者であり被害者であった。男は自ら家を焼いた。ライターとスプレーを使って。その動機は資料によれば『「蚊を潰してやろうと思ってやった」と供述』と書いてあった。
ーーー蚊を潰すのに、ライターとスプレー?手じゃ駄目だったのか?
疑問は深まるばかりだった。
*
その告白は取調べ前の簡単な雑談の折、不意に始まった。
「あの団地のそばを通りかかった時、一匹の蚊に刺された。そいつをなんとか潰してやろうと思って、追っかけたんだよ」と男は言った。
「追っかけた?蚊を?」
「一匹潰しても駄目なんだ。あいつらには発生源がある。そこから根絶やしにしないと後から後から後から…いくらでも湧いて出てきやがる。だから、エイリアンの揺籃場みたいなものを元から潰すんだ」
男はまるで自分が蚊の専門家ででもあるような口ぶりで話を続けた。
「それで火をつけたのか?団地に」
「蚊を見ると、どうもむしゃくしゃして駄目なんだ。放っておけない、というか」
男は頭を掻きむしった。
「一匹の蚊を潰す為なら、例え何人の人間が死のうと構わないって言ってるのか?」
「そうじゃない。申し訳ないことをしたと思ってるよ」
男は口角を下げ、至極申し訳なさそうな表情を作った。
「でも結局、あの夜のあの炎が忘れられないんだろうな」と男は言った。
いつの間にか口角は上がっていた。
#放火 #犯罪 #蚊 #エイリアン2 #ワンスアポンアタイムインハリウッド #火炎放射器 #小説 #短編小説