短編326.『オーバー阿佐ヶ谷』26
「見覚えあるかい?」
私は毛の一本を摘んで、小牧の前にかざした。可動式のライトがゆっくり毛を照らし、小牧のその端正な横顔を照らした。
小牧は毛を受け取り、興味深そうに眺めてから「これは…なんでしょうね」と言った。
「分かってんだろ?俺が怪物からむしり取った体毛だよ」
小牧の奥から身を乗り出し、「小牧さん、困ってるじゃない!ちゃんと説明してあげてよ。そもそもワタシもその怪物のことなんてよく知らないし」と真妃奈は言った。ーーーこいつは一体、誰の味方なのだろう。少なくとも私ではないことは確かだった。
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{仕方がないので、ことのあらましを説明した。今更もう一度書くのは面倒くさいので省く。各々、勝手に最初の方を読み返してくれやがれ}
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「なんとも興味深い話ですね」と小牧は言った。
「教えてくれよ。あの怪物は一体なんなんだ。ーーーそれともこのまま知らぬ存ぜぬを通すつもりか?」
小牧は深くてのんびりとした溜め息をついた。もしその口にトランペットのマウスピースを当てがってやればLow-F♯ が出そうな息遣いだった。
「なんで僕がここまで有名になったか分かりますか?阿佐ヶ谷の小劇団の売れない役者だったこの僕が」
「怪物に会ったからじゃないのか?言ったんだろ?『俺を救ってください』って」
小牧は微笑した。それは女を戸惑わせる種類の淡いものだった。
「ーーーそれとも才能があったから、とでも言いたいのか」
「逆ですよ」小牧は微笑んだ。それは女をたらし込む時のそれだった。私は今宵このまま抱かれてしまうのだろうか。ーーー最悪、3Pならアリだなと思った。「自分に才能がないことをきちんと自覚出来ていたなら、他人の話を素直に聞ける。独りよがりにならずに、ね。才能なんてあればあるだけ邪魔なだけなんですよ。ーーーでも、それを認めることが一番難しい」
小牧の横で真妃奈が盛んに頷いている。釈迦の説法を聞く弟子みたいな姿勢で。
「小牧さん、今日はあんたの芸論を聴く会じゃないんだよ。そんなこと自分の講演会でやりやがれマザファカ」
「あぁ申し訳ない。僕も歳なのかな」と笑った。
小牧はバーテンダーに目で合図を送った。バーテンダーは仕事を始めた。よく調教された牧羊犬みたいに。
新しい酒が三つ届いた。ジントニック、ドライマティーニ、カルーアミルク。真妃奈の奥の席のウィスキーグラスが下げられ、そこには代わりにビールが置かれた。
「で、会ったのか?怪物に」
「会いましたよ。もちろん」
意外、というかあっさり認めた。その答えが来るとは思っていなかったので、私はジントニックを噴き出した。
「ーーー会ったの?」
「えぇ」
「阿佐ヶ谷の小劇団を辞めたっていう十七年前に?」と真妃奈が付け加えた。
「そうですね。あれはーーー」
小牧亨の一人語りが始まった。私と真妃奈は【小牧亨ひとり芝居】と題された舞台を眺める形となった。