短編98.『俺の推しは俺、だから』
薄暗い地下の倉庫には段ボール箱に詰められた商品が山と積まれていた。伝票番号と照らし合わせ、一つ一つピックアップしては台車に乗せる。これが今の仕事だった。仕事というかアルバイト、バイトというより派遣労働、派遣というよりは搾取。時間あたりの賃金と命を天秤に掛けたら、とても釣り合うものではないことは分かっている。ただこれが日本の現状、現代の底も底。やがてAIに取って代わられる直前、最期のヒューマンパワー。
「推し、とかいるんですか?」
派遣先で何度か一緒になったことのある歳下の女性に尋ねられた。まだ若く、両の瞳が夢に照らされ輝いている。目を合わせるのが申し訳ないほど、こちらの瞳は澱んでいるというのに。両手は段ボール箱で塞がっていた。これじゃ抱きしめることも出来やしない。
「ごめん。おし、って何?」
「やだなぁ、おじいちゃんじゃないですか。推し、っていうのは好きな俳優とか応援してるアイドルのことですよ」
ーーー俳優?アイドル?
そんなこと中学以来、考えもしなかったな。あの頃はテレビに映るタレントと付き合えるなんて本気で思っていた。年若く、まだ世間を知らない、それでいて精子だけを余らせたニキビ面の。(最後の部分は今とあまり変わっていないように思える。ただそれは、若年性のニキビではなく不摂生が形を取った爽やかさの欠片もなくめでたくもない紅白であり、抱き止めてくれる相手はティッシュしかいない哀しき子種達だ)
勿論、今だって付き合う方法はあるのだろう。所詮、男と女。凸と凹。唸るほどの金を持つか、六本木辺りの重要人物になりさえすれば良いだけだ。アイドルの一人くらい、十万あれば抱けると聞く。ゴシップ誌に書いてあった。抱けても、抱き留め続けることは難しい。金で女を抱いた紀州のドン・ファンは殺された、とも聞く。私は無駄に長生き出来そうな気がしてきた。
「そうだなぁ。最近はテレビも見ないし」
「YouTuberとかでもいないんですか?」
年下の女性は執拗に食い下がる。こう託(かこつ)けて自分の好きなアイドルの話をしたいだけなのだろう。無駄に歳を食っているから分かる。そしてそれは、話したいだけであり、私に一片の興味がある訳ではないことも。彼女が求めているのは、「君には誰か、推し、がいるの?」という問いかけであり、それ以外は雑音以外の何物にもならないことだって。
久しぶりの女性との会話だった。出来ればここは一秒でも長く引き伸ばしたい。その過程で恋が生まれることだってあるかもしれない。男と女、凸と凹。きっかけはどこに潜んでいるか分からないものだ。飽いた天使が気まぐれに弓を引くかもしれない。
「そうだなぁ。もし、俺に”推し”がいるとすれば」
「はいはい」自分で聞いてきた割に俄然、興味は無さそうだった。
「俺の”推し”は…」
女性はお土産の地方人形のように頷きを繰り返すだけだった。そこに感情はなく、最初の振動が次の振動を生み出すだけの惰性でしかない。
「俺の”推し”は、俺だね」
以後、女性から話しかけられることはなかった。
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