短編307.『オーバー阿佐ヶ谷』7
7.
ようやく家に帰り着いた。煙草の香りがコロン代わりに染み付いた四畳半に。四時を回っていた。私の視界も回っていた。換気扇を回し、部屋にこもる煙草の匂いを追い出す。灰皿に溜まった吸い殻を捨て、固まって黒くなった灰の塊を蛇口の水で軽く洗う。そうしてからまた新たな煙草に火を点けた。世界はこうして清浄と汚濁を繰り返す。死と出産のメタファーが如くに。
一日の後半は酷い日だった。バーで隣り合った男の話から始まった怪物奇譚に巻き込まれ、より多くの酒を必要とする羽目になった。右肋骨の奥から不平不満が聞こえてくる。こんな夜は音楽が必要だった。虚像とリアルの入り混じるそんな音楽が。
レコード棚からN.W.A『”STRAIGHT OUTTA COMPTON”』を取り出し、ターンテーブルに乗せて針を落とす。スピーカーから弾き出されるコンプトン直送の爆音ラップ。私はさながらアイス・キューブだった。
「Fuck Tta Police」
「Fuck Tta Police」
「Fuck Tta Police」
♪。私も合わせて歌った。「ファカポーリース!」
中空に中指を突き立てると同時に、隣の部屋から壁をどつき回す音が聞こえた。鈍い連続音だった。それは地面に倒れた人間を金属バットで執拗に叩き続ける様を連想させた。薄い壁は今にも突き破られそうだった。安アパートに住む(にしか住めない)狂人はタチが悪い。ボリュームを絞った。
部屋の反対側から叩かれたであろう場所の壁には『スカーフェイス』のポスターが貼ってある。アル・パチーノ扮するトニー・モンタナが歯を剥き出しにしてマシンガンを乱射しているシーンを切り取ったそのポスター。顔の部分が凸凹に歪んでいた。内側からの攻撃にマシンガンは何の役にも立っていないようだった。
丑三つ時をやり過ごした今となっては、全てが非現実的で、怪物のことなど酔って見た夢のように思える。そうであるなら、なんの面白みもない夢だった。創造を主とする職業にしては致命的な。
ことの真相を確かめるべく財布の小銭入れを開くと、四本の陰毛が出てきた。ーーー陰毛?そうか。リアルか。
神棚代わりに使っているタンスの一番上に置かれたクインシー・トゥループ著『マイルズ・デイヴィス自叙伝』の真ん中辺りを開き、そこに四本の黒い毛を挟み込んだ。そこではちょうどマイルズが警官達に警棒でシバキ回されているところだった。
ページを閉じ、本を戻し、手を合わせた。多分、作法としてはこれで良い。自信はないが。
*
明日の朝は一件のアポが入っている。マネーをメイクする為の第一歩だ。それが三百六十五日分の一日だったとしても、二五億六千万五百分の一時間であっても、外せない重要案件だった。
ーーー怪物がなんだってんだ。俺は俺の手で勝ち取る。そしてその手でヘネシーを飲み、もう片方の手で弄る暗い茂み。
これから寝るというのに反比例するが如く屹立した竿を収める為、丸くなって眠った。
#阿佐ヶ谷 #NWA #スカーフェイス #マイルスデイビス #小説 #短編小説
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