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短編303.『オーバー阿佐ヶ谷』3

3.

 スマートフォンで時刻を確認すると、既に次の日になっていた。零時を廻るか否かで心持ちは大分変わる。帰ろうにも男との話は佳境に差し掛かっていた。こうして人は”朝”という概念を忘れる為に更にと酒を呑む。

「で、その怪物に遭遇したらどうしたら良いんですか?」
 当然の疑問を口にする。まさか見るだけで幸運がもたらされる訳でもあるまい。酒が語らせた戯言だとしても尚、そこに一縷の望みを賭けてしまう程にはこの人生、切羽詰まっていた。何者にもなれず三十を過ぎてしまった男のさが。
「怪物の前に回り込んで、こう言え。『俺をここから救ってください』と」
「なんか惨めっすね」
 思っていたより哀れだった。いい大人が怪物にすがりついて『俺をここから救ってください』なんて憐憫を通り越して滑稽に近い。『人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇である』と言ったチャップリンのアレだろうか。
「この谷底から脱出したかったらそうするしかないんだよ、ボーイ」
 ボーイ、と呼ばれる歳でもなかったが頷くしかなかった。

 男はカウンター越しに手を伸ばし、勝手にウィスキーの瓶を取った。多分、中身は日本酒だ。店主の姿は見えない。私がこの店に来た一時間前からずっと不在だ。男は自分のグラスだけ満たして瓶を戻した。仕方なく、残り少ないビール味の焼酎を飲んだ。

「しかし、その怪物ってのがいるとして、そいつは一体何なんですかね。怪物なのに夢を叶える?まるで流行らなかったB級の御伽噺に聞こえるけど」
「夢破れた者達が生み出した願いの総体さ」と男は断言した。「それは空の星々を経由して、ある時、形態を伴ったんだ」
 さすが自称・小劇場劇団きっての演出家。芝居じみていた。
「で、おじさんは見たことあるんですか?その怪物」これも私の抱くべき当然の疑問だ。
「もし見てたら、今こんな店で飲んじゃいないよ馬鹿野郎」
 男はグラスの底に僅かに残った日本酒味のウィスキーに口をつけた。

 潰れてテーブルの隅に突っ伏していた男が突発的に顔を上げた。現実のみならず夢の世界からも追い出されたらしい。
「そろそろ店じまいにするよ。勘定は各自置いていってくれ」
 照明に照らされたその赤い顔は人々の希求する”健康な生活”とは程遠いように思えた。

 適当な金額をカウンターに置いて店を出た。演出家の男は三百円払ったようだった。酒数杯で三百円。コスパ、と思った。

          *

 夜風が酔った肌に心地良かった。温泉から上がった後の散歩みたいに気持ち良い。夢という名のぬるま湯に浸った我が身を思う。怪物なんて見ることもなくこのまま浸り続けたい、とすら思う。夢は夢を語っている最中が一番居心地良いのだろう。
 私は煙草に火を点けた。男が手を差し出したので、一本恵んだ。年功序列の通じない町・阿佐ヶ谷。

「おい。もし見つけたら教えた通りにするんだぞ」と男は言った。
「分かってますよ。後ろから蹴飛ばせば良いんですよね」
「馬鹿野郎。祟られて一生阿佐ヶ谷で暮らせ馬鹿」

 我々は店の前で別れた。



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