見出し画像

短編226.『庶民の夢がエンピツのこの時代』

「こんなエンピツみたいな家が六千万だってさ」
 隆が声を上げて笑った。言った本人は1Kの昭和築集合アパートに住んでいる。
「きっとこれがBで、こっちがHBで、その隣はFでーーー」
 まだ空欄の表札を指して、黒鉛の濃さで喩える隆。その隆の肌は2Bのような色合いだ。週一回の日サロの効果はイエローと呼ばれる肌を確実にアフリカ大陸の土の色に近づけていた。
「お前、筆箱買ってこいよ」隆の笑い声が狭い路地裏に反響する。「こんな東京の外れも外れ、埼玉との県境の土地に六千万も出す奴の気がしれないね」

 同じ造りの建物が四棟並んでいる。ーーー四つ横並びに設られた各家の玄関ドアは一つ以外は不正解で、その先が泥沼になっているかもしれない。そんな妄想を抱かせるには充分なほど、クイズ番組的なシュールさがそこにはあった。

 似た(というより同じ造りの)四つの家。辛うじて住所は東京、ほぼ埼玉。六千万。
 全てが現実味を喪失していた。昭和なアパートや古い団地も嫌だが、一生涯に渡って縛られる高い金を払ってまでこんな家には住みたくなかった。

「タワーマンションに住みたいね」と隆は言った。「最上階に住んでさ、街と下々の庶民を見下ろすのさ。『見ろ!人がゴミのようだ』ってね」
 二階建ての1K昭和築集合アパートの一階に住む隆の夢はジブリのアニメーションに重なる。よほど鍵っ子だった幼少期に見尽くしたのだろう。天空の城、が理想の住まいになってしまうくらいには。

 僕は複雑な気持ちだった。共に笑っていいのか、それとも嗜めた方がいいのか。あと十年もして家庭というものを持った暁には、僕もこのエンピツが欲しくなるのだろうか。欲しくなくても買わねばならないのかもしれない。配偶者の圧力によって、子どもという未知の生物からの要請によって。

 その時の僕はなんと言えるだろう。「こんなエンピツみたいな家に金なんて払いたくないよ」と言い切るほどの自信はなかった。

 このまま大学を卒業したとしても、タワーマンションの最上階を買えるほどの稼ぎが得られる職につける見込みはない。都心の一軒家なんて手が出ないだろうし、こんな郊外の一軒家ですら怪しいくらいだ。それでも東京に残るべきか、田舎に帰るべきか。

 シャープペンシルの芯ほどの土地に火が着けば燃える素材の家を建て、それで人生万事アガリなのだろうか。夢なんて卒業と共に忘れ、定年までの四十年余りを満員電車で過ごす。リストラと妻に怯え、子どもからは蔑まれる。子どもの結婚式で束の間の涙を許され、定年後もアルバイトで小突き回される。ーーーなんて人生だ。それを平気でこなしている大人というものにもなりたくないし、今や子どもの世界にも還れない。ーーーなんて人生だ。

 分譲中の四軒の隣は空き地になっていた。まだ手つかずのそこだけは雑草が濃い緑を残している。ほどなくここにも数軒の同じ家が建てられるのだろう。東京的無個性を凝縮したようなエンピツが。

 我々は二十歳だった。夏草は二人の背丈を越えるほどに伸び、この先もまだ天に向かって成長する気配があった。いつか切られるその時まで。



#持ち家 #新居購入 #夏の日の思い出 #小説 #短編小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?