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短編344.『オーバー阿佐ヶ谷』44

44.

 老婆は流れ落ちる涙を拭った。私はそれを見ないふりした。生憎、差し出すべきハンカチは持っていなかった。
「もう少し早く来ていたら”止める”ことも出来たかもしれなかったのにね」
「ん?」
「マサキさんが殺される前の晩、ケンちゃんから電話を貰ったのさ。『もう限界だ』って」
「は?」
「そうだよ。マサキさんを殺したのはケンちゃんさ」
 現実は怪物など意に介さないほど不可思議なことだらけだ。それは海を廻し、森を焼き、空を墜とし、時計を溶かす。
「でも、あいつ毎日のように『ソルト・ピーナッツ』にいたぜ?仲が悪かったら普通、飲みに来ないだろ」
 当然の疑問だ。されて然るべき設問だ。カウンターに腰掛け、正体不明の安酒を前にした在りし日の演出家の姿が目に浮かぶ。
「関係を繋ぎ止め続けたかったのか、それとも贖罪のつもりだったのかねぇ、マサキさんなりの」
「贖罪?」
「劇団をクビになった後、しばらくしてからマサキさん言ってたんだ。『ケンの才能を潰してしまったのは俺の人生最大の汚点だ』って」老婆は亡き演出家の声色を真似て言った。それはとても似ていた。「馬鹿な話だよ。一言でも謝ればいいものをさ」
 ーーーうむ。一言謝る。それはそうなのだろうが、男という生き物がもれなく背負ったプライドというやつが邪魔をしたんだろう。

「ケンちゃんも辛かったんだと思う。考えてもみなよ。自分がせっかくオープンに漕ぎ着けた店に自分が絶対に許せない奴が毎日のようにやってくる様を、さ」
「それを何十年も、か。行く方も行く方だけど、受け入れる方もなかなかに覚悟のいる年月だな」
 ーーー赦(ゆる)す、という選択肢が頭に浮かんだ日はなかったのだろうか。ただただ歳月分の憎悪をたぎらせただけだったのだろうか。そうであったなら、人間というのはなんて愚かな生き物なのだろう。哀しい男たちの哀しい話だ。
「結びついて解けない、因果ってやつだったのかねぇ。マサキさんはずっと悔恨の情を抱えたまま通い続けて、ケンちゃんはケンちゃんで何十年もの間、ずっとマサキさんに対する殺意を握りしめていたのだとしたらあまりにも不憫で仕方ない。…アタシにはもう何がなんだか分からないよ」

 ーーーその後の老婆の話を要約すれば、以下のようになる。
 演出家が殺されて四十九日の昨日、再び店主から老婆に電話があったそうだ。曰く、「伝えたいことがある、明日店に来てくれないか」と。そして、地方に住む老婆は朝一の新幹線に乗り、ここ阿佐ヶ谷の地までやってきた。
「伝えたいこと」。そこには殺人の告白から演出家最期の言葉までパンドラの匣の如き内容が含まれていたらしい。底に残った希望は、それでも二人に出逢えたことへの感謝だったという。
 老婆は店に備え付けられた電話で”110”を廻し、店主は当たり前のように逮捕された。集まる野次馬、飛び交う噂話。そこにやって来た三つ編みのラッパー。そして、今がある。

「色々と教えてくれて感謝するよ」と私は言った。
「あんたもさっさと三つ編みなんて切り落としてマトモになんなよ。殺されてからじゃ遅いんだよ、何もかも」老婆は私の三つ編みを軽く引っ張った。「老婆心ながらね。ーーー老婆だけに」
「笑えない冗談をありがとう」

 『ソルト・ピーナッツ』の、多分もう開くこともないドアの前で我々は別れた。

          *

 “スター”・ロード。
 どこまでも皮肉な名前だ。今までどれほどの人間が夢を追い求めるようにして希望と共にこの道を歩き、そして、この脆き道を踏み外すように脱落していったのだろう。



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