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短編254.『NO 敵意 to me』

 ーーーというステッカーが車のバンパーに貼り付けられているのを見るようになって久しい。あおり運転が社会問題化した結果だろう。でも、そのロゴが描かれたTシャツを着ている人間を見るのはそれが初めてだった。だから思わず話しかけてしまった。直前に呑んだテキーラがそうさせたのかもしれない。

 場末のクラブは今日も満員で、誰も彼もが一夜限りの享楽を求めてやって来る。そこには酒も喧嘩も脱法ドラッグも何だってある。現代のソドム、勿論SEXだって。

「お姉さん、カッコいいTシャツ着てるね」と僕は言った。
 多分、歳上だろうけど、敬語なんてここではベルリンの壁にしかならない。。
「そう?」とその女性は言った。あまり嬉しそうではなかった。
「なんかそんなに敵意を向けられることがあるの?」
「たまにね」女性はハイネケンのボトルネックを握って口元に運んだ。上下する喉元がエロかった。「敵意を向けられたら反応しちゃうから」
「僕の”ここ”もお姉さんに反応しちゃってまーす!」
 ウェーイ!的なノリで言ってみた。
「そういうとこ」と女性は言った。「性欲は私にとっては敵意と同じなの」三日間、冷蔵庫に置かれたままの味噌汁よりも冷えた目つきだった。

 改めてよく観察すると、その女性からは一切のセックスアピールを感じなかった。周りのレディ達は胸元も露な際どい衣装に派手なメイクを施している。それと比べると、鍵の付いた鉄パンツを装着した中世のお妃様を連想してしまうほど、この女性は地味だった。

「なんかトラウマでもあんの?無理矢理ヤラれた、みたいなさ」普段、昼の光の下なら聞かないようなことでも、クラブの照明の下では気軽に口に出来てしまう。SNSの負の側面と同じく匿名性がそうさせるのかもしれない。
「気持ち良い、って怖いと思わない?」
「気持ち良いが怖い?」
「それに嫌悪感と…そう。罪悪感すら覚えるわ」

 DJがメロウな曲をプレイし始めた。それに倣って照明もピンクを基調としたムードあるものに切り替えられる。我々の会話は相変わらずNo ムード YES 敵意だった。

「気持ち良くなったことないんじゃないの?」まるで昭和のおじさん。普段憎む対象も実は自分の中に住んでいる。
「セックスではね」と女性は言った。今朝食べたものを告げるくらいの静かなトーンだった。
「もったいないね!俺で良かったら相手するよ」俺じゃない。酒によって上気する下半身がそう言った。
「いらない。私は私の気持ち良いことを知ってるから」

 ーーーセックス以上に気持ち良いことがこの世にあるのか?そんなものがあるとすれば人類はその時点で途絶えてしまうではないか。なんだかとても気になってきた。俺が知らないだけでもっと気持ち良いことがあるなんて。

「じゃあ、お姉さんにとって気持ち良いことって何?」
「何かをバラす時かな。そういう時は心の底からゾクゾクするわ」
「誰にも言っちゃいけない秘密とかを?」
「おいで」と女性は言った。

 我々は女子トイレの個室に向かった。これから何かとてつもない秘密をバラされるのだ。尻のあたりがソワソワとこそばゆい。これが…ゾクゾク?

 トイレの鍵を閉め、改めて向かい合った。女性は肩に掛けた小ぶりなバッグをまさぐった。とんでもないドラッグでも出てくるのだろうか。

 ーーー何が出るかな♪何が出るかな♪

 もう随分と前に終わってしまった昼番組のBGMが流れる。脳内を転がるサイコロ。さて、何が出るかな?

 女性は鈍く光る持ち手のバタフライナイフを取り出した。

          *

「ーーー警視庁から各局。警視庁から各局。渋谷区のクラブ○○○で殺人事件が発生。被害者はトイレの個室で首を切られて出血多量で死亡。血が外に流れ出ないように便器に頭を突っ込ませた状態で頸動脈を切断した模様。近くの者は至急現場に急行されたし。警視庁から各局。警視庁からーーー」




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