あとがきが欲しい
このところ、新しい本を買うのを少し控えて、買ってから寝かせておいた本を手にとってみたりしている。
そんなわけで、ドイツ文学者・エッセイストである池内紀氏のエッセイ『記憶の海辺 一つの同時代史』(2017年、青土社)を読みはじめた。帯文によれば「最初で最後の自伝的回想録」ということで、著者10歳~60歳の時を綴っている。
当然まだ読んでいる最中なのだが、「はじめに」からして既に味わい深い。
この「はじめに」では、これから綴られる人生についてサラッと書き流しているのだが、30年勤め人をした後、退職してからのことに関する記述がまた良い。
過去にはこだわらない。それはもう過ぎてしまっているのだから。未来にはこだわらない。それはまだ来ていないのだから。さしあたりは自分の虫干しをしよう。歳月の湿気がたまっている。
[…]以前は肩書が助けてくれた。見せかけのレッテルが当の人物のあと押しをする。それは重荷でもあって、見かけの人物に当の自分を合わせなくてはならない。一つのところを堂々巡りしているみたいで、それはむろん、健全な自分ではないのである。わけ知らず固定概念を身につけ、こんどは当人が固定概念に動かされる。あいかわらずの堂々巡りではないか。せいぜいアルコールで調整をはかってきた。いまひとたび、そんな自分を跳びこすとしよう。(p.13)
実は、この本の前には別の著者による別のエッセイを読もうとしていた。音楽に関するエッセイ集で、音楽専門誌に連載していたものを単行本化した作品とのこと。著者の名前と端正な装丁に惹かれて買ったのを覚えている。
ただ、そちらのエッセイは言葉の周りにヒラヒラと、結構な飾りがついていて、どうやら今の私の気持ちにはそぐわなかったようだ。読み進めても目が文字の上を滑っていくだけで、どうも頭と心に染み入ってこない。
「今は読みどきではないのだな」と判断して、また本棚に戻した。
実は、言葉の周りのヒラヒラだけでなくもう一つ気になってしまった点があって、それは「あとがきがないこと」。
私はどうにも、本の最後は「あとがき」で締まっていないと気持ちが落ち着かない。というか、物足りない気持ちになる。どんなに優れた本文であっても。
その心理の分析を試みてみるならば、「執筆に向き合った著者の気持ちやこの本を著すに至った経緯を、余韻として味わいたい」ということなのかもしれない。私は決して優れたテクスト読みではないので、著作と著者を完全に切り離して考えることがどうもできない。優れた本文であればあるほど、著者自身について知りたくなってしまうのだ。
ちなみに、池内氏の『記憶の海辺』の「あとがき」は…と思い、読み終わってもいないのに先に「あとがき」に目を通してみた。決して長くはないうちの、四行ほどの一段落にこれまた味わい深いことが書かれていた。
引用しようとも思ったが、これは本文と併せて読んだ方が良い。ご興味がおありの方はぜひ、手にとってみていただきたい。
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