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第二話 「雄太」

 新神戸駅の改札を出ると、そこに、赤いモヒカンでボロボロのカーキ色した、軍隊が着そうな上着を羽織った、見るからにやばそうな男が、黒いサングラスをして立っている。これから政治家を射殺しにいく、ロバート・デ・ニーロのようである。神戸のデ・ニーロは、私を見るなり、満面の笑顔で、嬉しそうに手を振った。
「なおちゃん!、なおちゃん!」
男は、サングラスを取ると、わかれとばかりに、自分を指さしている。
「えっと・・もしかして・・雄太くん?」
「そうそう」
 私は、雄太の前までくると、軽い会釈をした。
「・・・いや、なんか、すごい、変わったっていうか・・」
「うん、まあ、いろいろあってね」
 雄太が、自分のモヒカンをちょっとつまんで、恥ずかしそうに笑う。
「まあ、あんまり気にしないで」
 気にしない人はいないだろう。
「ロータリーに車を用意してあるから」
「ああ、うん、ありがとう」
 駅を出ると、ロータリーまでしばらく二人で歩いた。新神戸の駅は、わりと新しくて広い。最近できたような、おしゃれな雑貨屋や、広い土産物屋の列を抜けると、エスカレーターで地上へ出た。
 ちなみに、神戸に来たのは、人生で初めてである。会社に電車で行けなくなった私ではあったが、今回、新幹線で神戸に行くことは難しくなかった。むしろ、久しぶりの旅を楽しんでいたりする。私の心は軽かった。

あの、飛猿さんの奇妙な話を聞き、いてもたってもいられなくなった私は、その日は、朝の五時まで眠れず、そして、そのまま朝を迎えると、起きぬけの父の、あの、いつものおかしな体操を見届け、食卓でトーストに蜂蜜をかける父と、本当に久しぶりに朝飯を一緒にしたのだった。まだ起きている私に気づいた父は、珍しそうに私を見ると、二人分のトーストを焼き、目玉焼きまで作ってくれた。
 例の蜂蜜は、私は、食べないことにしている。それは反抗期に勧められ、ひどく父の蜂蜜を侮辱した過去があったからだ。反抗期真っ只中だった私は、父のすることには、すべて否定的で、父がうまそうに食べるものは、理由もなく嫌悪していた。あの蜂蜜のとろりと垂れて光るのを見るにつけ、目を背けたくなる気持ちでいっぱいだったのだ。父もそれを十分に知っているから、無理に私に蜂蜜は勧めない。
 それでも、私は、久しぶりに父との時間を持ったのだ。ダイニングテーブルで、向かい合って座り、そして、トーストをかじりながら、窓から入ってくる朝陽で、意識が朦朧になりながらも、私は、それとなく、例の話を聞いてみることにしたのだ。

「あのさ、お父さんさ」
「ん?」
「神戸って行ったことある?」
 まずは軽いジャブからだ。
「神戸?」
「そう、神戸」
「ああ、まあ・・・昔行ったな」
「昔って、どのくらい前?」
「さあ、だいぶ前かな、なんで?」
「あ、いや」
 逆に聞かれて、思わず動揺してしまった。父にはぐらかされたのだろうか。もう少し強めのパンチを出してみる。
「なんか、神戸にさ、『神童』ってお酒あるの知ってる?」
 その瞬間、父の顔が曇ったのを、私は見逃さなかった。
「なんだって?」
「『神童』って、日本酒らしいんだけどさ」
「・・・日本酒?」
「神戸に、その酒を造ってる、蔵があるらしくて」
「・・・で、それが?」
「いや、なんか知ってるのかなと思って」
 トーストをかじる父の手が止まっている。そして、私の目をじっと見ると、一言だけ、こう言った。
「・・・は?」
 それきり父は、まともに話をしようとしなかった。そしてまたトーストをかじる。私も、それ以上は何も聞かなかった。しかし。。。私は確信していた。怪しい。おそらく父は何かを隠している。これは一体、なんの予感なのだろうか。やがて父との朝食を終えると、私は、朝の八時にようやく布団に入った。緊張して疲れたのだろうか、横になったとたん、あっという間に熟睡していた。

 翌日、私は、いよいよ、パソコンで父のことを調べはじめた。同じ屋根の下に住んでいる父を、こっそりインターネットを使って、知ろうとしたのである。もはや私の好奇心は、止まらなかった。
 検索サイトのトップページに『沖田昌平』と打ちリターンキーを押す。思えば、父の名前で検索など、したことは一度もなかった。
 すぐに、数件の沖田昌平の個人情報が出た。しかし、どれもこれも父のことではなさそうだ。同姓同名の名前にまつわるサイトが、次々と載っていた。陸上の大会の記録やら、どこかの大学のサークルのOBの名簿など。父とはまるで関係のない情報だ。それでも隈なく、注意しながら、ページをスクロールしていくと、ふと、あるページを見つけ、手を止めた。

「沖田昌平の数奇な人生 ~伝説の男~」

黒い背景に、ネオン色した文字が、浮かび上がっている。誰かが、趣味で作ったようなデザインもへったくれもない、個人サイトである。そして、そこから先の文章を読んで、私は思わず言葉を失った。

 『沖田昌平は、八歳にして、その舌の確かさから、神戸の酒蔵である城戸酒造の、名テイスターとして、日本中に、その名を知らしめることになる。そして、幻と言われた日本酒『神童』の開発に携わり、そして、その後、日本酒を世界に広めるべく酒造関係者らと渡米。そこで出会ったのがボクシングである。』

 渡米?、ボクシング?、はて。それからページは、『神童』の具体的な酒瓶の画像とともに、城戸酒造の紹介が載っており、一番下にある「次のページへ」というリンク先をクリックしてみるが、なぜか該当するページが見当たらず、それ以上、先を見ることはできなかった。これはいったい、どういうことだろうか。どこかの都市伝説のサイトのようだが・・・しかし、曲がりなりにも、飛猿さんが言っていた話と一致する。これは一体・・・本当のことだろうか。
 そんな馬鹿な!。パソコン画面を見つめながら、私はこめかみを指で強く揉んだ。なんだか急に怖くなり、部屋を出ると、階段を降り、居間のドアを開けた。そこで、父が掘り炬燵に足を突っ込んだまま、スヤスヤと眠っていた。その寝顔が、先ほどの都市伝説とはまるで無縁で、私は思わず笑ってしまった。父を起こさないように、そっと居間の戸を閉めると、その足で台所へ行き、また水をコップ一杯飲んだ。まずは自律神経を整え、そして、これからの先の事を考えていた。

神戸に行ってみよう。
そう思った。
これは、父の過去を探る旅である。その出発点は、おそらく神戸にあるはずだ。部屋へ戻ると、すぐさま飛猿さんに電話した。
今の私には、旅の仲間が必要だった。

                *

 
「お兄さん、すごいね、映画監督だもんね」
雄太が突然言った。私は面倒そうに答える。
「ああ、うん、まあなんかね」
「見たよ映画。こっちでもやってるから」
「そうなんだ、私もあんまり、会わないからさ」
 ちなみに、私には映画監督をしている兄がいる。自慢の兄と言いたいところだが、人間的にも問題があるので、私はあまり近寄らないようにしていた。こうして、誰かしら会うたびに、兄の映画の話になるのが、私はなぜか無性に腹立たしかった。私は、すぐに話題を変えた。
「なんかでも、綺麗だね、神戸」
 雄太が、大きく頷いた。
「神戸は、来た事ある?」
「いや、ないない」
「そっか、いいところだよ」
 まるで、生まれた時から神戸にいるみたいに、雄太が言った。ちなみに、今回、私がこうして神戸に来たのは、父には内緒である。適当な嘘をつき、数日してから帰ると、父には言ってある。父は珍しそうに私を見ると、一ミリも嬉しそうな表情を顔に出さず「そうか」とだけ言った。が、私には、わかっている。父の無表情が、どこか嬉しそうだったのを。家から出ない息子が、急に家を出た父の気持ちを、私は察した。

 駅のロータリーまで出ると、地味な色したセダン車に紛れて、一台の派手な車が停まっている。俗にいう「痛車」と呼ばれる車である。アニメのアイドル歌手たちが、大きく描かれたその車に向かって、雄太がリモコンでキーロックを解いた。
「車、こんなだけど、あんま気にしないで」
 気にしない人はいないだろう。
「まあ、個人的なアレだから」
 雄太が苦笑いを浮かべて、私を助手席へ案内する。しかし、雄太は変わった。この数年で一体、雄太に何があったというのか。
「俺さ、人生を楽しむって決めたんだ」
「・・・ああ、そうなんだ」
 ひとまず相槌だけうち、言われた通り、助手席に乗り込むと、私は思わず顔をしかめた。車内がとんでもなく臭いのである。アメリカの匂いというか、古着屋で嗅ぐような、あの甘ったるいアメリカの匂いが充満している。そんなことは露にも気にしない雄太が、運転席でシートベルトをしめている。
「お昼は?」
「ああ、まだちゃ、まだだけど」
「あ、そう、蕎麦と、ソースかつ丼と、あと、わんたん麺、どれがいい?」
雄太が早口で聞いた。どうやら、地元の美味しい店を案内してくれるらしい。腹がすいては戦はできぬ。わけでもなかったが、せっかくの久しぶりの再会だし、例の蔵へ行く前に、聞いておきたい話もあった。私は、しばらくその場で悩み、そして、「わんたん」と言いかけた時、雄太が口をはさんだ。
「蕎麦だよね、やっぱ蕎麦。仲間がやってる店なんだけど」
 もうどっちでもいい。なら聞くなと言いたい。
「・・仲間って?」
「ああ、日本酒の会っていうのがあってさ」
「ああ、なんかお父さんから聞いてる」
「そうそう、サークルみたいなやつでさ、みんな気さくな連中だし、紹介するよ」
「ああ、うん」
「気さくな人だよ」
 気さくな人とは会いたくはなかった。気さくな人と、何を話せばいいというのか。
「じゃあ、れっつらごー」
 と雄太が言った。
「はい」
 と私が答えた。
 いよいよ車が走り出す。私は匂いに耐え切れず、こっそり窓を数センチほど開けた。神戸の国道を、赤い髪したロバート・デ・ニーロを乗せた派手な痛車が走る。雄太が、私に断りもせずにかけた、なんだかわからない声優の歌うCDを聞きながら、運転して静かに揺れている。直視すると、どうしても笑ってしまいそうなので、バレないように、私は窓から外を眺めいる。
「今、こっちで働いててさ」
 運転しながら、横目で、雄太が話はじめた。
「ああ、うん、聞いてるよ、なんか、会社やめたんでしょ」
「うん、ちょっと、病気しちゃってさ」
「病気?」
「うん、ちょっと、心の病気っていうか、過呼吸がすごくて、電車に乗れなくなっちゃって」
「え?」
「本当は、あんま言いたくないんだけどさ、なんか自律神経に問題らしくて・・・」
 驚いた。私と全く同じではないか。このことを、飛猿さんは、知っていて、私に話たのだろうか?

「イジメられてさ、前の会社で」
「イジメ?」
「今でいう、パワハラってやつ?」
「えー、イジメって、いい大人が?」
 昔、雄太をイジメていた私が言うことではないが、同情する。
「そうなんだけど、なんか、会社の人に、お弁当隠されて」
「?」
「お弁当をね、隠されたのよ」
「・・・」
 驚いた。大人も、人の弁当を隠すのだ。そんなこと、本当にあるだろうか。信じられない。
「大人なのにね」
「うん、大人もさ、元々子供だからね」
 雄太がわけのわからないことを言った。
「まあでも、今はもう全然平気で、こっちで、雑誌作る会社で働いてんだけどね」
「そうなんだ」
「今は、すごく調子いいの、食べ物関係の雑誌作ってるからさ、それ伝手で、サークルの人たちと仲良くなってさ」
 雄太が、今度は、嬉しそうに笑う。きっと雄太は居場所を見つけたのだろう。私はまだだ。
「なおちゃんは?」
「うん、なんか、働いてたんだけど、やめちゃって」
「そうなの?」
「まあ、私の場合は、別に、お弁当隠されたわけでもないんだけどね」
 それを聞いた雄太が、びっくりするほど笑った。そんなに面白くはない。
「だから、今は、暇人」
「ふーん」
「暇じゃなきゃ、こんな神戸まで来ないでしょ」
「たしかに」
 といったところで、思わず手が出た。雄太の脇腹をつついてしまった。つい、昔の名残が出たのだろうか。雄太を小突く癖が、何十年ぶりに出た。
「痛いよ」
 そう言って笑う雄太は、何も変わっていないようだった。ただ、赤いモヒカンだけが、悲しく揺れていた。

 車で十分もいくと、雄太おすすめの蕎麦屋『木の実』についた。どうやら店は地元の人たちの、行きつけの店らしく、昼過ぎだというのに、賑わっている。店に入ると、雄太の姿を見るなり、店の奥から、キツネみたいな顔をした細身の男が、割烹着姿で現れた。
「ゆうゆう!」
「けいとくん!」
二人は、そうして、手をこねくり回し、腕と腕をぶつけあい、楽しそうに挨拶をする。明らかに仲良くなさそうな見た目の二人が、アメリカの挨拶をしている。その異様さに、私は固唾をのんだ。
「こちら、なおちゃん、幼馴染の」
 私は、これ以上ないほどの愛想笑いを浮かべ、「なおこです」とだけ答えた。そして、気さくに手を差し伸べてきた、けいとくんの右手にそっと、力のない握手を添えた。
「けいとっす、ゆうゆうとは、日本酒の会で」
「ああ、聞いてます」
ゆうゆう。どこかの動物園のキャラクターだろうか。あの赤いモヒカンからして、どこかの珍しい鳥のようにも見える。
「最高の蕎麦、出しますんで」
 といって、けいとくんは、厨房へ消えた。
「ここの蕎麦さ、けいとくんが、ちゃんと打ってるんだよ」
「そうなんだ、なんか意外だね」
 果たして、気さくな人の打った蕎麦など、本当にうまいのだろうか。蕎麦打ちは、もっとストイックなものと聞いている。ひとまず座敷に座った私と雄太は、蕎麦を待つ間、いよいよ本題に入ろうとしていた。

「あのさ、それで、お父さんから聞いた話なんだけど」
「ああ、うん、『神童』の話でしょ」
「そうそう」
「今から一緒に行く、城戸酒造さんってとこでつくってる、ほんと、昔からある、お酒なんだけど」
「うん、なんかネットで蔵の画像とかは見た。思ったより、綺麗そうだったけど」
「そうそう、今はかなり改装されて、古民家風のカフェみたいに、営業してんだけどね」
「なんかあるよね、そういうの」
「うん」
「幻のお酒なんでしょ?」
「いや、まあ、そんな格好いいもんじゃないよ、実際は、あんまり流通してないってだけで、蔵のほとんどが、カフェになっちゃってるし。でもね、まだ作ってるのよ、『神童』、ほんとに数本だけなんだけどね、地元の人にしかもう売ってないから、幻とか言われて。それでも、今も続いてんの」
「そうなんだ、すごいね」
「うん、だから毎年、秋ごろになると、ちゃんと杜氏さんやら蔵人さんたちがきて、仕事してくわけ」
「杜氏さん?」
「まあ、大将だよ、酒造りの」
「ああ、なんか聞いたことはある」
「で、うちら日本酒の会っていうのがさ、月に一回、酒蔵見学に行かせてもらってんだけどね、それで、ちょっと前に、城戸酒造さんに、お邪魔したわけよ、あとは、うちの親父から聞いたと思うんだけど」
「銅像のことでしょ」
「うん、俺、絶対、なおちゃんのお父さんだと思うんだよね」
「?」
雄太が言い切るので、私は思わず、小首をかしげた。
「え、なんで、そんな言い切れるの?」
「俺さ、なおちゃんのお父さん、小学生の頃にしか会ったことないんだけどさ、なんか覚えてるんだよね、だって、ちょっと変だったでしょ、なおちゃんのお父さん」
「・・・」
自分の父を、変だと言われて、いい気はしないが、たしかにそう言われるのも、わからなくもない。
「まあ、変は変だけど・・」
「変だったって、なおちゃんのお父さん」
「・・・なんか子供のころ、されたの?」
「いや、されてないけどさ!」
雄太が面白がって笑う。
「で、どうなの?、似てる?」
「いや、わかんない、だってさ、自分の親の子供の頃の顔って、あんま知らなくない?」
「ああ・・まあ、そうかあ」
「写真も残ってないしさ」
「お父さんに、直接は聞かなかったの?」
「聞いてない、いや、聞こうとしたよ、聞こうとしたんだけど、なんか、ねえ・・・」
 私はうまく説明ができなかった。父に直接聞くと、いつものようにはぐらかされ、それですべてが終わってしまいそうな気もした。父を内緒で知りたかった。父に内緒で知りたかった。返答に困っている私を見かねて、雄太が話を続けた。
「まあ、それでね、こないだ城戸酒造さん行った時に、蔵を案内してくれたのが、城戸幸男さんっていって、もうだいぶ年なんだけどね、元々は、城戸酒造の社長さんだった人でさ、今は息子さん夫婦に経営は渡してるみたいなんだどね」
「うん」
「でね、その幸男さんって人が、当時のことを覚えてるんだよ」
「え?」
「だから、なおちゃんのお父さんのこと話したらさ、なんか、すごい興奮して、早く連れてこいっていうの」
「え、うそ、そんな感じなの?」
「まあ・・・でもね」
今度は雄太が困っているような顔をしている。
「なに?」
「その、幸男さん、ちょっと、アレっていうか、たぶん、ちょっと痴呆入ってて・・」
「え?」
「大丈夫、まあ、会えばわかるよ」
 雄太が能天気に笑う。そこへ、けいとくんが、できたての蕎麦をもってやってきた。
「くるみのつけ汁でどうぞ」
 どうやら、けいとくんなりのサービスらしい。ゆうゆうとけいとくんが、また、拳と拳をぶつけ合っている。本当のこの二人は日本酒の会の人たちだろうか。蕎麦を出すと、けいとくんがそのまま厨房へ戻っていく。ひとまず蕎麦だ。蕎麦を食べよう。話はそれからだ。
 結論から言うと、けいとくんの蕎麦はクソうまかった。蕎麦と人間性は関係がないということが、これで立証された。気さくな人の蕎麦は、ほどよいコシがあり、まさかの甘いくるみのタレと相まって、優しいハーモニーを奏でていた。私は一心不乱に蕎麦をすすり、気が付けば、雄太よりも早く蕎麦を食べ終えた。人は見た目ではわからないものだ。
 蕎麦を食べ終え、店先で、また二人のねちっこい別れの挨拶を見届け、再出発した私たちは、しばらくは都会的な国道をひた走っていたが、数十分もすると、気が付けば、田舎道になっていく。神戸の街も、駅から車でしばらく行くと、それなりである。山の麓に向かって、車を走らせる。やがて見えてきた建物を雄太が指さした。
「アレだよ、アレ」
 田舎道に、ポツンと建っている一軒の酒蔵がある。あれが城戸酒造だ。比較的新しい建物なので、少し意外な気もする。到着すると、そのまま車ごと、門の中へ入っていく。庭先の広い駐車場に車を停めた。酒蔵といっても、敷地内にあるのは、ごく普通の民家である。
「ちょっと、挨拶してくるね」
まず雄太が降りて、玄関へ向かった。チャイムを鳴らす。車のフロントガラスから、その様子が、のぞいている。しばらくすると、玄関の戸が開いた。そこから、髭むくじゃらで、一見浮浪者のような老人が顔を出した。例の幸男さんだろうか。二人が玄関先で何やら話している。雄太の視線を追うように、その老人が車にいる私の方を見た。すると、なぜか突然のように興奮した老人が、そのままつっかけを履くと、こっちに向かってツカツカと歩いててきたのだ。焦ってしまった私は、慌ててシートベルトを外すと、車から外へ出た。
「はじめまして」
と弱気な挨拶しようとする私の前に、老人はやってくると、足を止めた。そして、じっと、私の全身をくまなく見まわすと、私を思い切り抱きしめた。「!」
 驚いた私は、身動きができなかった。老人の、その萎んだような両目から、大粒の涙がこぼれた。そして、背中に小さく囁くように、話かけるのだ。
「ごめんね、しょうちゃん」
「・・・」
 一体何が起きているのか。私は、何も返すことができなかった。ただ、見ず知らずの老人に抱きつかれたまま、身動きがとれずにいる。
「どうか、許して・・」
 困惑している私に、戻ってきた雄太が紹介する。
「あの、その・・・幸男さん」
 その顔が、何だか親子の再会を見るような、感動的な顔で私は少しだけイラっとした。そして、なぜか雄太まで涙ぐむ始末だ。そして今度は、私に向かって、何か返せとばかりに、コクリと頷いた。
「・・・」
 私は、仕方なく、その老人を優しく抱き返すと、一言だけ声をかけた。
「ただいま」
幸男さんが泣いている。雄太も泣いている。

何もしらない神戸で、私は一人、困惑していた。

                

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