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親切な希死念慮


けいようーむじゅん【形容矛盾】
《〈ラテン〉contradictio in adjecto》論理学で、ある語をその語のもつ性質に矛盾する語で形容すること。「三角な円形」とか「ゴム製の鉄板」などがその例。

デジタル大辞泉 小学館



言葉を知ることは楽しい。もっと本質に近づくとすれば、知らないことを知ることが楽しいのだ。ソクラテスの無知の知に衝撃を受けた高校1年生の倫理の授業。経験もしていないのに憶測だけで判断してしまうことはおかしいのではないのかと唱えた彼の生き方は、淡々と生きていたら気づきもしなかったことだった。よく考えてみると当たり前なことなのに。死ぬのが怖いと言いながら死んでもいないのに死んだ後の世界が怖いとなぜ言えるのか。ごもっとも。それでも死ぬのは怖いし、就活は嫌だし、私はまだまだその境地には辿り着けない。きっと一生をかけても到達できない頂だと思う。ソクラテスの偉大さを痛切する。



生理が近づくと、食欲や体調にあまり変化がないかわりに、精神的な浮き沈みが著しい。女の子たち、毎月本当に偉いと思う。意味もなく涙が出てきたり、なんで生きてるんだろうと思ったり、人生すべてを投げ出したくなったり。生理とバイトが重なった日はバイトに行くまで涙がとめどなく溢れることもある。バイト先はとてもいいところなのに、バイトで起こる突発的な出来事に恐れたり、あんなこと起きたらどうしようと想像して動悸がしたりで、バイトに行くまでに毎度精神がやられる。だるいな行きたくないな、ではない。それも多少あるけれど、未来に起こるかもしれない”何か”に私はずっと怯えている。今まで生きてきて、ずっとそうだ。



SNSとか知恵袋を覗くと、死にたい人ってたくさんいて、その反面インスタとかYouTubeにはきらきらした生活をしている人もいて。やることだらけなのに有限の時間を浪費してこんなことを検索している私ってなんなんだろうとバッドに入る。何年か先のために今を生きられなくて、いつだって最低限明日生きるためにしか今日を生きられない。本当はそれだけでいいのかもしれないけれど、無意識的にこの人生に期待をしてしまう私は、落ちぶれていくこの有様に対して自己嫌悪に陥る。それでもこの世界にはたくさんの面白いコンテンツで溢れていて、幸せそうな人は五万といて、不幸だと嘆く人もSNSを徘徊すればごろごろといるのだ。仲間を探してしまう。私は一人じゃないと確認したかった。誰かに支えられながらここまで生きてきたおかげで、こんなにも私は一人で立っていられなくなってしまった。なんて幸せ者なんだろう。



一つの逃げ場所として、哲学がある。人生とは、生きるとは、死とは。無限の問いの中を彷徨い、ひたすらに答えのない問いと向き合ってきた哲学者が残してきた言葉や思想は、そんじょそこらの言葉と比べ、重みがまったく違う。そこに共感とかはなくていい。ただ、他の人の生き方を知るだけでいいと私は思う。自分の中に引き出しと逃げ場所を増やしておく。人生に悩んだとき、その一助となるのが私の場合、哲学なのだ。悩みなど挙げてもキリがなく、一人で抱えていても苦しくなるだけだった。それならまだ、たった一人でもいいから誰かのそばにいるといい。寄り添ってくれなくても、そばに人がいるという温度が伝播し、心地いいのだ。その誰かさえいないと言うのなら、その悩みに苦しむ自分を憐れんで泣きはらそう。泣いて泣いて泣く。何も解決はしないけれど人生ってそういうもんだからって少し諦めてみる。親切な希死念慮が、少しはあたためてくれる。






『マシュマロ』始めてみました。

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