「人間が嫌い」と言っていた私へ
今からちょうど3年ほど前の私は、「人間が嫌い」というのが口癖というか、常に念頭にあるひねくれ曲がった人間でした。もちろんそのような考えに至ったのには色々な要因があります。初対面の人に対して外見などからの印象で態度を変える人、ほんの些細な、でも裏切りという名前のつく行為、誰しもが持っているであろう、表と裏の顔。それらすべてに嫌気が差して、「人間が嫌い」というとんでもなく尖った考えをもっていました。
たしかに人それぞれどこかに腹黒い部分があって、できることなら関わりたくないような人とどうにかやっていかないといけなかったりして、「人とかかわること」自体にうんざりすることって生きている限り回避できない気もします。でも振り返ってみると、「人間が嫌い」なんていう極端で攻撃的な考えに至った要因は、前述したような対人上の問題に加えて、自分自身の問題でもあったのだろうと思うのです。
まず、当時の私はとっても卑屈でした。今でも自分に自信があるわけではないですが、当時の自信の無さは群を抜いていたと思います(笑) だから自意識過剰になっていたし、人と目を合わせることが怖くて怖くて仕方ありませんでした。そして常に自分が周りからどう思われているのかばかりを気にしていました。それでいながら「自分のこういうところはきっとあまり良く思われないからこうしよう」といった改善を行うわけでもなく、ただただ自分に対するマイナスな評価を勝手に自分の中で生み出して落ち込み、さらに自信を無くすという悪循環に飲まれていました。
最近になってわかったこととして、「自分が思っているほど人は自分を気にしていない」ということがあります。この言葉を最初に聞いたとき、私はすぐさま「そんなわけない‼」と思いました。それは私が必要以上に他人を気にしすぎてしまう、自分に自信が無さすぎるからだと思います。私みたいな人の気持ちを軽くしてくれるような言葉なのに、その考え方故に言葉を素直に受け入れられないなんて皮肉な話です。この言葉を受け入れることができたのは、「たしかに私自身のように他人の言動を気にする人もなかにはいるけれど、大半の人はそんなに気にしていない」という風に考えられるようになってからです。
過去の自分に今だから言えることってたくさんありますが、一番最初に言いたいことは、「人間が嫌い」と言い放っている自分自身だって所詮人間なわけで、そんなに全方位に棘を張り巡らせていても何も良い方向には進まないよってことです。当時の私からしたら、それが自分を傷つけないための最大の防御であり、最善策だったのでしょう。でもその張り巡らせた棘によって、自分に向けられていた優しい視線や言葉たちのこともはねのけてしまっていました。それってものすごくもったいないことです。
どうせ周りの人たちを気にするなら、正確に分かることなんてない各々の腹の底をうかがうのではなくて、目一杯届けてくれている思いやりや気遣いを全身で受け止めることに意識を向ければいいんだと思います。嫌味やマウンティングとかだって、正直気がつかなかった者勝ちです。ちょっとモヤッとしたとしても、気のせいだと思って吹っ切っちゃえばいいんです。
それじゃあ何の解決にもなってないじゃないか!と思われるかもしれませんが、そもそも嫌味を言われたことに対して、解決も何もありません。無駄な悪意が生み出す不毛な攻撃が嫌味やマウンティングの根源です。そんなものに逐一対処することも、また無駄です。そういうものからは距離を置くのが最善策なのだと思います。
何事においても、行き詰まったら力を抜いて周りを見渡してみる。そうすると、力を入れなくていいところに力を入れていたり、何てことないものにしがみついていたりしていたことに気がつけるものです。強がって、ひとりよがって、潰れないでください。大丈夫に、なれますように。