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食物依存性運動誘発アナフィラキシー

これが私の病気です。

簡単に言うと、特定の物を食べて激しい運動をするとアナフィラキシーショックが起きて、最悪死に至ります。

食材は、まさかの小麦。
小麦アレルギーがピザ屋をしています。


初めて発症したのは小学3年生のころ。
その時は何が原因だったのかは分かりませんでした。

担任の先生は当時でも少なくなってきたスパルタな女性教師で、給食を残すことは絶対に許してくれない先生でした。

まだ苦手だった椎茸の肉詰めがなかなか食べ切れず、昼休みが半分終わった頃に食べ終わりました。

ランチルーム(地域差あり)から教室に戻ると少しずつ首が痒くなってきて、ぷつぷつが広がっていき、これは虫刺されじゃないと保健室へ。

ただの蕁麻疹だったので、母親が迎えに来てくれてそのままお医者さんへ行き、点滴を打つとすぐに楽になりました。

ポタッポタッと落ちていく点滴は、「ナースのお仕事」で見たことあるなあとか呑気に思っていました。

するとその日から度々、給食を食べてから昼休みに遊んでいると蕁麻疹が出るようになります。

アレルギー検査をしても分かりやすく数値が出てこず、5,6年生のころに麺やパンの日に出やすいかな?という見解に。

ここから、ひとまず小麦を摂取したら食後30分は運動をしてはいけないというルールで生きていくことになります。

ここであまりに子どもらしい話ですが、母親がどれだけ心配して食生活に気をつけていても、いつ蕁麻疹が出るか先生がヒヤヒヤしていても、「痒くなるくらいだしな〜」「痒くなったら授業休めるな〜」という緊張感がない赤澤少年だったのです。


中学生になり、麺類で蕁麻疹になりやすかったという理由で、毎週火曜日の麺の日はおにぎり持参というルールが増えました。

思春期だったのでさすがに恥ずかしさがあり、コソコソと麺の代わりにシャケおにぎりを食べる火曜日。

未だに根に持ってるのは「アレルギー移すんじゃねぇよ。」とガキ大将キャラのクラスメイトに一度だけ言われたこと。

そして中学2年生のころ、午後から所属していたサッカー部の練習がある日。

友人とラーメンを食べて1,2時間経ってから練習を始めると蕁麻疹が出てきました。

「ああいつものやつだな。」と思いながら顧問に伝え、保健室の先生がいなかったので教務室に連れられて行くと、段々といつもと蕁麻疹の広がりが違うことに気づきます。

呼吸がしづらい。

少しずつ首が閉まっていく感覚になり、気づけば視界が外側から少しずつ白くなっていきます。

様子がおかしいと思った顧問がすぐに救急車を呼んでくれました。

学校に救急車が到着してから受け答えをしていたことを覚えていますが、視界はずっと真っ白。

病院に到着して血圧が急低下して危険な状態だとうっすら聴こえた後に、気づいたらベッドで寝ていて、すっかり見慣れた点滴がポタッポタッと落ちていました。

これ、死ぬ病気なんだ。

死にかけてからやっと理解して、流石にそこから発症することは減るようになります。

サッカー部を辞めたいと顧問に伝えると、部員が多いし丁度マネージャーが欲しかったから残れと言われました。

正直そのサッカー部内に前述のガキ大将がいるから辞めたいんだけどなあと思いつつ、気弱だったもので断り切れず、中学生サッカー部マネージャー男子という珍しい存在に。

保護者や顧問から献身性を褒められたけど、たぶん自分に気を遣ってるんだなと解釈してしまい、素直に喜べない中学3年生でした。


高校生になると運動部には入らずにダラダラと過ごし、発症したのも2回くらいでした。
(1回は倒れかけたけど意地で耐えた。)

クラスメイトが全員優しかったので本気で心配されて、これはこれで申し訳ないなと思いました。

修学旅行先の大阪で気を遣ってたこ焼きとお好み焼きを避けてくれたこと、本当に本当に本当にごめんね寄りのありがとう。


料理の専門学校に通う頃に「エピペン」という注射器を持ち歩くようになりました。

もし発症したら早めに太ももから注入すれば生存確率がグンと上がる筋肉注射です。

ですが料理の学校で、条件付きだけど小麦アレルギーって噂が広まるのを恥ずかしく思ってしまい、すべて隠しながら通っていました。

しかし、アレルギーについてのレポート提出でなんの気なしに経験談を書いたところ即座に呼び出されてしまい、後日母親を連れて三者面談へ。

それどころか、可能な限りの先生が参加する約十三者面談でした。
(今まで前例がなかったとのこと。)

そこで「エピペン」の使い方の説明をして、でもクラスメイトに気を遣われたくないので伏せて欲しいことを伝えると、快く受け入れて貰いました。


就活の時、カフェ兼レストランへの面接で正直にアレルギーの話もしました。

味見があるパスタ以外は出来そうだからと就職はすんなりと決まり、そこでピザを真っ先に教わることになります。

社会人になってアレルギーで嫌な経験をしたのはこの新卒での会社だけです。

配属された長岡市の店舗。

パートさんの言葉が少し強いなあと、初日から感じていました。

店長から小麦アレルギーの問題からパスタ以外の仕事をしていくと説明をしてくれたみたいでしたが、パートさんから付けられたあだ名はまさかの「粉くん」でした。

店長に見えないところで忙しい時、ミスをした時に「粉くん」と呼ばれるようになります。

学生の時でも蔑称まで付けられたことは無く、ショック過ぎて言われるたびに頭が真っ白になりました。

初めての会社、初めての一人暮らし、鬼のように厳しい店長、少ない休み、長岡市には友だちもいない、パートさんからは事あるごとに「粉くん」「粉くん」「粉くん」。

リーダー格のパートさんは妊婦さんでしたが、産まれてくる子がアレルギー持ちになればいいと呪いそうになり、そんな自分にも嫌気が差しました。

朝はトイレに吐いてから出社して、店は忙しくて周りから罵倒されて、夜は泣きながら帰る日々。

3ヶ月で耐えられなくなって退職を願い出て、社長と面談の末に新発田市の店舗に異動することになりました。


今となって困ることはスポーツしたい時は塩むすびとかゼリー飲料しか摂取出来ないこと。

それが面倒で中学生のころからすっかり運動嫌いになってしまいました。

たまに気をつけながら運動するとすごく楽しいですけどね。

あと雪かきが実は盲点で、めちゃくちゃ汗かくんですよね。
社会人になって2回ほど軽く蕁麻疹が出ましたが、いずれも雪かきの後でした。

前向きに考えれば、食べなきゃスポーツが出来て、動かなければいくら食べても大丈夫。

アレルギー持ちの中ではまだまだ良い方なのかもしれないと思っています。

そして、相手は忘れていると思いますが、こっちは永遠に忘れられない言葉というものがあります。

これはいつでも自分にも返ってくる話で、いつ人に傷つけられて、いつ人を傷つけているか、想像力をしっかり働かせて他人に接していきたいです。

美味しく食事が出来ることに感謝をして、いつ食べれなくなるか分からないぞ!ってたまに思いながら噛み締めて生きましょう。

最後に、母親には何度も迎えに来させたり、毎週作らなくてもいいはずのおにぎりを作ってもらったり、命の心配をたくさんかけてしまった学生時代でした。

今さら申し訳なく思っています。
すみません、ありがとうございました。

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