対話と僕㉘:『対話』が成立する条件
・はじめに
先日X(旧Twitter)にて以下のようなポストをした。
元を辿ると「対話を願う事は害悪である(意訳)」というポストから始まった流れに対して僕の素直な感想を述べてみた。
『対話』が成立する条件に近い内容は過去にも書いているのだが改めて書いてみようと思う。
以下は関連する過去の記事である。
・『対話』が成立する条件
早速今までの経験から感じている条件をいくつか挙げてみようと思う。
目的が共有されている
ルールが設定されている
ゴールが設定されている
「相互理解」が前提にある
発言する能力が備わっている
聴く能力が備わっている
当然これ以外にも条件は存在するはずであるが、こうして見ると当然の事のように思えるモノばかりである。
前述のポストに戻ると元のポストは『目的が共有されている』という事が成立していない中で『対話』がなされている状態を嘆いているように思える。
そうであれば『対話』自体を嘆くのではなく、それが成されない状態を嘆くべきだ。
前述のポストにも書いた通り『対話』はあくまでも手段なのでその活用方法が重要なのである。
全てを書いてしまうと収拾がつかないので前半3つについてもう少し詳細を書いてみようと思う。
・『対話』は手段であるという認識
個人的に『対話』を実践するようになってから感じる事は『対話』への信奉が強すぎるという事である。
これさえあれば分かり合える、これさえあれば解決できる、これさえあれば救われる、と言った祈りにも似た願いがあるように思える。
そしてそれらが実現しないと『対話』に責任を押し付けるのである。
それに加えて『対話』にはそんな万能性は無いし、あくまでも手段である事は前段の僕のポストに書いた通りだ。
法律を作るだけで犯罪が無くなるのか、勉強をしただけで優秀に慣れるのか、ツールを導入しただけで課題が解決するのか。
そうではない事は日常生活においてほぼ全ての人が経験しているはずなのに、何故このような感覚に陥ってしまうのか。
目的が無ければやる意味が無いしルールが無ければ無法地帯になる。
そしてゴールが設定されてなければ客観的な成果が得られない。
ここで重要なのはそのものの良し悪しではなくそれらが共通認識となっているかという事である。
少々極端な表現になるが「ゴールは無い」というゴールであったとしても共通認識となっているかが重要なのである。
一方で目的とルールについては大まかにでもあった方が経験上『対話』が成立しやすい。
いずれにせよ前述の通りそれらが共通認識となっているかが重要なのである。
もう一つ加えるとすると『対話』自体がその場で何かを解決する事は稀であり、あくまでも手段である事を認識する必要もある。
意思決定を伴う必要がある場合は『対話』と『意思決定』のフェーズを明確に分けて実施する必要がある。
この辺りも以前の書いたことをがあるので興味がある方は参照してほしい。
・最後に
何度も『対話』を体験してきた身としては、それ自体の可能性や重要性は強く感じている。
ただ、それ自体が複雑な問題を解決するのではなく、何かを成す為の準備、ヒント、勇気、きっかけ等々を得られるモノなのである。
直接的な解決策にはならないが得られるモノは非常に重要だという事なのだ。
だからこそ『対話』を信奉し過ぎずに身近なモノとして気軽に実施してみてほしい。
そしてどんな条件を整えれば『対話』が成立するかも体感してほしい。
そうして実施された『対話』からきっと様々な可能性を感じることができるはずである。
僕自身はそういった機会を色んな場面で作っていければと思っている。
興味がある方はお声がけください。
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