対話と僕㉖:『批判』が成立する条件


・はじめに

少し前にとあるSNSで、他者の意見を受け入れられない人に対して「真っ当な批判は受け入れるべきだ」という投稿に遭遇した。
対話を通じて批判の可能性を模索してきた僕は、この場面で少々モヤモヤした気持ちを抱えてしまった。
このモヤモヤを言語化できずにいたのだが、今回は過去の記事と合わせて整理していきたいと思う。

・何故『批判』が受け入れられないのか

先ずは冒頭にあった『批判』が受け入れられない理由について考えてみようと思う。
人間には元来『自己防衛本能』(心理学界隈では自我防衛機制と呼ばれる)が備わっている。
これは、自分の感情や思考をコントロールして自分を守るという本能的な仕組みである。
この他にも、内外の環境の変化に関わらず生理機能を一定に保つ性質を持つホメオスタシスと言う能力も有している。
つまり『何かが変わる』という事に対して、その原因から自分自身を守るというのが人間が有している機能の一つなのである。

前述の通り『批判』という自分と違う意見(もちろん同じ意見の場合もあるが)が現れた時の自然な反応は防衛や拒否なのである。
これは良い悪いではなく前述の通り本能的なモノなので誰にとっても起こり得るものなのだ。
では、『批判』を受け入れる為には何が必要になるだろうか。
過去にも何度か書いてはいるが別の視点でまとめてみようと思う。

『批判』を受け入れる為には

ここまで述べてきた通り、そもそも私たちは『批判』を簡単に受け入れることができない。
これは仕方のないことで人間としての当然の反応と言える。
「真っ当な批判は受け入れるべきだ」と言うのであればこういった前提を基に考えないといけない。
また、『批判』とは言ってもコミュニケーションの一環であるのだからその責を一方に求めることは無粋ではないだろうか。

それでは、どのように『批判』を受け入れられるようにすれば良いのだろうか。
僕の経験上では大きく分けると『環境』『仕組み』『個々の能力』の3つが必要だと考えている。
それぞれの詳細は別の機会に整理しようと思うが簡単に述べておこうと思う。

  1. 『環境』:この場には『批判』が必要であるという共通認識。

  2. 『仕組み』:『批判』する側、される側が尊重されるルール。

  3. 『個々の能力』:批判を受け入れる能力、受け入れやすくさせる能力。

上記の3つに共通する事はその場にいる人にとって必要な能力であるという事である。
つまり、コミュニケーションにおける片一方にのみ求めるものではないという事だ。
前述の通りそれぞれの詳細についてはまた別の機会に書いてみようと思う。

・最後に

冒頭に書いた「真っ当な批判は受け入れるべきだ」に感じたモヤモヤは一方的な要求だからだったのだと思う。
もちろん片一方に課題があるケースもあると思うが、完全にどちらかの責任であるケースは経験的に殆どない。
この手のディスコミュニケーションは様々な場面で起こっているのだと思う。

そういった状態になった時に相手自体を変えるのではなく前述のように周辺環境を変えるという手法もある。
相手のせいにし過ぎず、自分のせいにし過ぎず、効果的な手法はあると信じている。
この数年対話を実践してきてこの辺りの感覚を掴みつつある気がしている。
生煮えの状態でも言語化しながら整理していきたいと思うので皆さんの意見も聴かせてほしいと思う。

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