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対話と僕㉒:『手段』を悪者にする危険性

・はじめに

ひっそりと頻度が低くなり久しぶりの更新となりました。
自分の中で目標としていた半年間・概ね隔週ペースの更新がなんとか達成できたことで少々サボっておりました。
ネタ切れ感もあったのですが言語化することで得られる事も多かったのでゆるりと再開したいと思います。
引き続きゆるりとお付き合いください。
今回は最近感じている違和感について書いていこうと思います。

・『手段』を悪者にする風潮

最近感じている違和感は見出しの通り『手段』を悪者にする風潮である。
特に強く違和感を覚えたのはTwitterで見かけた『正論を言うより気持ちに寄り添う方が良い(意訳)』という論調だ。
それを使う『ヒト』や『ケース』を度外視して道具を否定することに違和感を覚えた。
感情的にわからなくは無いのだが、これが罷り通ってしまえば使う側の意思や責任が軽んじられてしまうのではないかと思えた。
(そもそも通用しない正論は正論ですらないのだが)

正論に限らず『手段』への否定的な意見は数多く見られる。
古くはテレビゲームの子どもへの影響はその典型かもしれない。
詳細の説明は省くが、相関関係は認められても因果関係は認めらないという研究結果があるにも関わらずそれを理解しようとせずに「やはりゲームが悪いのだ!」と捉えてしまう。
これは非常に安直であり危険な着想である。
ゲームに没頭することで成功した人は存在するし、逆に失敗してしまった人もいるのが現実なのである。
両者には「ゲームに没頭した」という共通点はあるがそれ以外の要因は読み取ることができないケースが多い。
それにも関わらずわかりやすい悪者を作りだして論を展開してしまうことに意味や価値があるのだろうか。

・『手段』に解決策を求めすぎない

最早長々と語る必要もなく、ここで言いたい事は『手段』に解決策を求めないという事である。
『手段』事態は使い方次第でどんな結果にもなり得るし、所謂『銀の弾丸』が見つかる事は極稀なケースなのである。
それを度外視してある一つの『手段』を学ぶことで解決すると思う事は色んな意味で危険である。
「この本には具体的な解決策が載っていなかった」「研修で課題を解決できなかった」などはその典型と言えるだろう。
こういった思考は学びを止めたり、責任を放棄したりしてしまうことに繋がり、機会損失を生むことにもなる。

ここまで述べてきたことを踏まえて『正論』について少し考えてみよう。
・伝え方の問題だったのでは?
・受け手が正しく理解できていないのでは?
・既に検討した内容だったのでは?
・伝えた『正論』事態が間違っているのでは?
・『正論』を伝えるタイミングではなかったのでは?
挙げればキリが無いが『正論』事態の問題以外にもいくつも想定できる。
これだけでも『正論』だけに原因を求めるのは無理があることが分かる。
何故『手段』を悪者にする風潮がしばしば見られるのかは様々な理由があるが、それはまた別の機会に書いてみようと思う。
ここで言いたい事は、『銀の弾丸』に出会う事は極稀であり自身の境遇に合わせて学んだことをカスタマイズしていく事こそが解決への第一歩なのだ。

・『どう使うか』を決めるのは自分自身

この手の話は技術が進歩するたびに議論がなされてきた気がする。
最近ではChatGPTをはじめとしてAIツールなども同じジャンルかもしれない。
結局は使う側の責任からは逃れられないのであり、『手段』を禁止することは進歩や発展を妨げる。
当然ながら一定のルールは必要であるが使い側も進歩していかなければならないのだ。
それを妨げる一番の要因は『手段』を悪者にすることなんだろう。

『手段』を良し悪しで捉えるのではなくパターンといて蓄積していく。
そしてそれを掛け合わせながら自分にとって最適な『手段』を構築していく。
これが今僕が導ける最適解だと思っている。
そしてその為に必要な『手段』が『対話』なのだと思っている。
違いに触れる、自身の思考を言語化する、新たな気付きを得る、この経験が前述の最適な『手段』を構築することに繋がると思っている。
この辺りは別の機会に詳しく述べていきたいと思う。
今日一番伝えたい事は『手段』を悪者にする事は危険であるという事だ。
是非皆さんもこの点について一度考えてみてほしい。

・最後に

久々に書いてみたが勢いで書き上げることの大切さを実感している。
書きながら気付く、別の文脈で考えていた事と繋がる、こういった感覚は言語化の醍醐味だと思う。
これからはあまり頻度は気にせず思い付いたタイミングで書いていきたいと思う。
これからもお付き合い頂けるとありがたいです。
様々なリアクションが励みになるのでお時間がある方は是非。

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