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対話と僕㉔:『批判』を諦めない②

・はじめに

『批判』を諦めきれない僕が改めて『批判』について書いてみた前回。
本来の意味やそれに欠かせない『理解』について整理した。
今回はそこから更に発展させて『対話』における『批判』の可能性について書いていこうと思う。

・関係性を良くするための『対話』

近年『対話』の必要性は『傾聴』や『肯定』といったキーワードと共に様々な場面で述べられている。
僕の観測範囲ではそのほとんどが関係性を良くするためだと言われている。
こうした流れは、教えたり指導したりするコミュニケーションより受け入れたり伴走するようなコミュニケーションが求められているという背景があるように思われる。
また、心理的安全性や人的資本経営と言った『人』に着目した概念が頻出するようになったことも影響しているだろう。

一方で、関係性を良くするためのコミュニケーションを実施する事を優先するあまり『傾聴』や『肯定』が誤用されているように思える。
平たく言えば『関係性を良くするためには傾聴や肯定をすればよい』という理解になってしまっているという事だ。
短期的に見れば『傾聴』や『肯定』をしてくれる人との関係性は良くなるだろう。
ただ、そこにあるモノは一方的な発信に対する表面的な『理解』なのである。

これ自体が悪い物だと思わないが『対話』の本来の役割を考えると不十分であると考える。
個人的には『対話』が必要な理由は『相互理解』であり、そこから転じて自身を知るための気付きに繋がる事だと思っている。
その為に『批判』が必要になるのだがこれについてもう少し詳しく述べていこう。

・『批判』のその先にあるモノ

『対話』とは『相互理解』を促し自らを知るものであり、その為に『批判』が必要であると述べてきた。
その辺りについてもう少し整理していきたいと思う。

少々感覚的な話になるが『傾聴』や『肯定』は片一方が相手方に提供するものだと思っている。
傾聴に徹するがあまり素朴な疑問をぶつけられない、肯定に徹するがあまり自分と違う意見だと思ってもそれを伝えられない。
それ自体が目的になっていると尚更だ。

前述の通り関係性は良くなるかもしれないがそれはあくまでも短期的なものに過ぎない。
何かを抑えながらの『傾聴』や『肯定』には限界があるからだ。

一方で前回書いたように『理解』を前提にしている『批判』はこうした懸念を払拭することができる。
『傾聴』の姿勢を示しながらも理解するために必要とあらば質問もする。
『理解』したうえで自分の意見と合致していれば『肯定』するし違っていたら『否定』する。
これが『批判』というモノである。
※前回も述べた通りこれについては伝え方に工夫が必要になる

ここでポイントとなるのは対話をする相手も正しく『批判』する姿勢でいればたとえ『否定』されたとしてもそれで終わることは無い。
何故『否定』するのかを理解しようとするからだ。
こうして双方の意見や価値観を交換していって『理解』を前提にした『批判』が深まっていく。
その先にあるのは 本来求めていた良好な関係性ではないだろうか。
『対話』をするうえで『批判』が重要になる理由がここに詰まっている。

この辺りは以前生煮えの考えを書いた『真っ当に批判し合う能力』に通ずるものがあると思っている。
今後は本日の内容も踏まえてこの能力についてもう少しブラッシュアップしていきたい。

・最後に

感覚的にお互いを『理解』する事が関係性を良くするというのを理解している人は多いのではないだろうか。
自分を知ってもらえた喜び、相手を知れた喜び、こうした体験を経て良好な関係性が築かれていくのだ。
それにはお互いが双方向に深めていく必要があり、それを実現するのが『批判』という事である。

真摯に正しく相手を『批判』する事が『対話』をより効果的にする事が少しでも伝わっていると嬉しく思う。
この辺りはもう少し言語化を進めていきたいと思うので引き続き実践と共に深めていきたいところである。
また、この話は相互理解だけではなくメタ認知や自己受容などにも繋がっていくと思っているのでそれはまた別の機会に書いてみようと思う。

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