私が管理本部長だ! vol.4
武士の情けと隠し事 前編
私は暑いのが大の苦手だ。
暑いとそれだけで頭が回らなくなり、そんな自分にイライラしてしまう。
だから夏になると、極力誰とも会わないように心がけている。
*****
それは猛暑と呼ばれるある日のことだった。
「高良川さん、社長がお呼びですよ」
私がお昼に出ている間に、総務の春川のところに連絡があったらしい。
「ああ、ありがとう。今日の社長のスケジュールは・・・」
「今日は終日在室予定となっています。高良川さんはお昼で出ちゃってますと伝えたら「そうか、こんなに暑い日の昼間にわざわざ外に食いに行くとは。。。」とか言っていましたから、たぶん今は社長室にいるかと思いますよ」
なるほど。
「ありがとう。では、社長室に行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
*****
「高良川お前、半年くらい前の何かの時に、馬肉が好きだとか言ってなかったか?」
えらく曖昧で突然な質問だ。
「・・・はい。確か、前回連れて行っていただいた焼肉屋で、「お前は何でいつも無表情で飯を食うんだ。特に好きな食い物とか無いのか?」とおっしゃった社長に対しての答えの一つに『馬肉』と言う単語があったかと記憶しています」
「おぉ!それだそれだ!」
背が高く恰幅の良い社長は、声まででかい。
「実はな、森下駅から少し歩いたところで、めちゃくちゃうまい馬肉を扱っている店を見つけたんだ。しかも、馬刺しだけじゃなくて馬鍋まで注文することが出来るんだ」
ほう、東京で馬鍋とはめずらしい。
「そこでだ・・、どうだ!今日の夜は空いているか?
「はい、今日の夜は空いています」
「そうか!では一緒に行こう。決まりだな!他にも俺の方で二人ほど声をかけておくよ。いやぁ、楽しみだなぁ!」
私は、馬刺しのあの引き締まった赤みを日本酒と一緒に食べると、『ふわっ』とした幸せな気分になる。まだ馬鍋は食べたことは無いが、おそらくキリっとした辛めの冷酒と合わせて食べれば、一日の疲れも吹っ飛んでしまうことだろう。
「しかもな、店の雰囲気がまたいいんだよ。昔ながらの長屋を改装した店だから、その雰囲気を壊さないようにエアコンとか扇風機を付けていないんだ。入店後すぐに渡されるうちわを片手に、もわっとした空気と立ち込めるだしの匂いの中で汗をかきながらうまいものに食らいつく!いやぁ、楽しみだなぁ!」
え・・・。
エアコンも扇風機も無い・・・。
「社長」
言うなら早い方が良い。
「大変申し訳ないのですが、今回は辞退させていただきます」
社長は笑顔のまま止まった。
「私は暑いのがすごく苦手です。せっかくのお誘いで非常に申し訳ないのですが、エアコンや扇風機が無い状態でそんなアツアツのものを食べてしまったら、みなさんのせっかくの団欒を台無しにしてしまう可能性があります」
「いやいや、そんな暑さなんて吹っ飛んでしまうくらいにうまいから大丈夫だ」
「いえいえ、たとえそうだったとしても食べた後にはそうはいきません。汗をかいたベタベタの体で外を歩き、濡れた体は地下鉄で必要以上に冷やされ、そして駅から歩・・・」
「わかったわかった!要するに、暑さから来る不快感を解決すれば来るってことでいいんだな!?」
怒ってらっしゃるようだ。
「では、とにかく今日の20時に森下駅に来い!俺がお前の要望を全部叶えてやる!!」
当然、私に選択の余地は無かった。
*****
「よし、まずはこれに着替えろ」
待ち合わせの地下鉄の地上出口のすぐそばで、私は社長に大きな紙袋を渡された。中に入っていたのは藍色の作務衣とキレイな雪駄だった。
回りには、家路に向かっているであろうスーツ姿の人たちが足早に歩いていた。
「はい、わかりました」
私は、お気に入りのグレーのスーツのボタンに手をかけた。
「えっ!ここで着替えるんですか?」
今日の社長のお供に選ばれたうちの一人、竹原が声をあげた。
ちなみに、そのとなりにはもう一人のお供、武蔵小山店で店長を務めている堀もいた。
私は言葉を返すことなく、まずは上着を近くのガードレールにかけた。そして、一応あまり肌が見えないように気づかいながら、スピーディーに30秒ほどで着替え終えた。
風通しの良い作務衣は、思っていた以上に快適だった。
「感想は?」
「はい、思っていた以上に快適です」
「そうか。じゃあ、それはお前にやる」
「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」
竹原と堀は、そんな私と社長のやりとりをポカンとした顔で見ていた。
*****
馬刺しも馬鍋も本当に美味しかった。
息苦しいほどの暑さの中で、冷酒をチビチビ飲みながら食べる逸品は格別だった。
「社長、今日はありがとうございます」
「おお、どうだ。暑いのも気にならないだろう?」
「はい。社長に用意していただいたこの作務衣も手伝って、とても快適です。昼間には無礼なことを言ってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
社長はニヤリと笑い、
「だから言ったろ~。お前も少しは人のことを信用しろよ」
と言って、三分の一ほど入っていたジョッキのビールをグッと飲み切った。
「まあ何にせよ、喜んでもらえて良かったよ」
私はこの時にはすでに、社長が、作務衣が入っていた紙袋とは別のさらに大きな紙袋を持っていることに気が付いてはいた。
ただ、その紙袋こそが社長のメインイベントだったということには気が付いていなかったのだ。