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人はいかに学ぶか

今日、この本『人はいかに学ぶか』の読書会があり、それに先立ってnoteにまとめておきたいと思いました。

「人はなぜ日常生活ではこのように能動的でかつ有能に学べるのであろうか」

この本の問い(テーマ)です。どうして私たち人は学ぶのでしょうか。学校にいる子どもたちは「能動的」なのでしょうか。簡単にまとめていきたいと思います。

「ヒト」が学習する必要性

地球上の動物の中で、「学ぶ」ことが自分たちの生命を維持することにつながるのは「ヒト」(サルの仲間)だ。ライオンや虎などの肉食動物は、筋肉が発達し、狩りを容易に行い、自分たちの命を守っている。

しかし、サルやヒトは違う。身体的に筋肉が発達しているわけでもない。雑食性でさまざまな環境に適応することができる反面、適応するためには外界についての知識を得ることが必要になってくる。どこが安全か、どこに食べ物があるのかなどを的確に判断することが必要になる。


伝統的な学習観

日本には伝統的な学習観が存在するという。学び手(学習をする人)に対するあるイメージが存在している。

学び手が受動的な存在であり、しかも有能でないという仮定をおいている

つまり、学び手は「受け身」であり、教師のような教える人が必要である、という考え方になる。

そして、その教師は、知識を伝達することに優れた教師が「優秀な教師」として評価されることになる。

本著では著者がこの「伝統的な学習観」に対して「新たな学習観」を提案している。伝統的な学習観の反対、つまり、「学び手は能動的な存在」であるということを示していく。

その前に、そもそも「学ぶ」とはどういうことなのか。何に支えられて学んでいるのかを整理されているので、紹介したい。

現実的必要から学ぶ

人は日常生活に必要性や有用性を感じると、「学びたい!」と思う。これは佐伯胖氏の本などにも書かれており、心理学の中でも有名な話だと思う。

先程の「生きていくために学ぶ」ことにつながるだろう。車に乗りたいと思うから、教習所で乗り方を学ぶ。将来海外で働きたいから英会話を習う。

反対に、そのような「学校」と呼ばれる場所に行かなくても、自然と「学ぶ」ことができているという話があった。

ブラジルの子どもたちは、道路や駅などでキャンディを売る際、物価の変動やインフレ、デフレなどに対応し、物を売っていく。計算の方法を学び、学校に行っていないのに四則計算ができるようになるという。

この話はブラジルの子どもたちだけに当てはまるわけではないだろう。つまり、日常生活で必要な知識や技能(生きていくために必要な知識や技能)は、人が学ぶきっかけ(動機)になっているのである。

では、学校では生きていくために必要な知識だけを教えたらいいのか。という新たな問いが出てきそうだが・・・

知的好奇心から学ぶ

知的好奇心、簡単にいうと「どうして!?」「面白い!」という知的な好奇心が芽生えた時、人は「学びたい!」と思うということである。「動機付け」とも呼ばれる。

人は、通常、自分がすでに獲得してきた知識を使って環境に働きかけ、これを自分のうちに取り込もうとする。

これは佐伯胖氏も言っていた「わかる」ということにつながる。自分の持っている知識を総動員して予想や仮説を立て、「やっぱり!〇〇と同じだ!」と思う。
しかし、そこでズレが生じると、「どうして?」「何で?」という驚きが芽生える。それえが動機付けとなって学び始める。

その知的な好奇心を子どもたちが抱くためには、どのような手立てが必要なのだろうか。。。これから考えていきたい。

参加しつつ学ぶ

学ぶためには、その対象が必要になる。学校でいう「教材」が必要になる。その対象が学びを援助してくれる。

それ以外に援助してくれるものが、学ぶ環境である。その環境には一緒に学ぶ仲間やそれを支援するコーチ(教師)がいる。

自分が持っていなかった見方や考え方を知る。本著では他者の知識を「借りる」という表現を使っている。他者との対話によって、他者の知識や技能を借り、自分のものにする。フィードバックを行い、自分の考えや他者の考えを振り返る。そのような環境が学びを助け、支援していく。

「三人よれば文殊の知恵」という言葉がこれにつながるだろう。

そのような学習環境を教師が用意し、対話を促し、それを見守り、最後にはフィードバックして価値づけを行う。子どもたちが「参加したい!」と思えるような課題や内容を設定する。。。。学校の存在理由が少しずつ見えてきた気がする。

新たな学習観に向けた学び

人は日常生活との有用性や知的な好奇心、学習環境への参加などを通して「学ぶ」ことができる。我々教師は、学びを支える心理学的な(認知的な)部分に目を向けていく必要があるだろう。

学び手が能動的であるという仮説に立った時、学校で大切なことは

・子どもは能動的であり有能であるというイメージを持つ。

・子どもの誤り(誤概念)を尊重し、なぜそのように考えたのかを一緒に探究する。

・仲間との対話を奨励し、一緒に学び合う環境を設定する。

・子どもの自由な探索や試行錯誤を認め、見守る。

・教材を日常生活から取り入れたり、日常生活へ近づけたりする。

・教師は知識を伝達するだけでなく、一緒に考え、悩み、支援する存在になる。


他にもまだありそうだが、本著では以上のようなことが紹介されていた。小学校段階では、1年生や2年生などの低学年に対しても同じことが言えるのか、中学年ではできるのか、といった問いが生まれてくる。

しかし、子どもたちに対する「見方」(イメージ)を改めて捉え直し、「教えてあげる」ではなく、「一緒に学んでいこう」という姿勢で臨むことが大切なのではないかと思った。


さあ!昼から読書会!今回はどんな話し合いになるのか!しかも久しぶりのオフライン!みんなと顔を合わせてお話ができる!

また話し合ったことをnoteでまとめていきます!!!


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