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ヤングケアラー
という言葉を、最近になって知った。
自分はヤングケアラーだったのかもしれないと思った。
わたしが中学3年生の時に母の病気が発覚した。
実際は中学1年生の時から具合が悪くて、発覚するまでに病院を転々としてずいぶん時間がかかった。
夜は遅く、土日も仕事をしていた母が、
学校から帰ったら居間に倒れていた時の光景は、未だに忘れられない。
その時は大事には至らなかったものの、救急車の音を聞くと、未だにその光景を思い出す。だからなかなかの頻度で思い出す。癖みたいになってるのかもしれない。
だけど、一番大変だったのは、病気自体ではなくて、それに伴って出てきた精神的なものの方だった。
今でこそ、うつ病という言葉はよく知られているけど、今から15年くらい前、中学生や高校生だった自分の周りではまだそこまで知られていなかったように思う。でもたぶん、うつ病に近いものだったんだと思う。
高校生の時は、自分の好きな格好をして、髪もツンツンにして剃り込みを入れて、いじられキャラみたいな立ち位置で、周りからはなんにも悩みがなさそうだと言われて過ごしていた。
授業にはあまり出ず(ごめんなさい)、部活のダンスに熱中して、チャラチャラしたやつだと思われていたみたいだった。
(今思えば、それが精一杯の反抗期だったのかもしれない)
だけど、頭の中ではいつも、
帰ったらもしかしたら、母はもうこの世にはいないのかもしれない
という思いを抱えて学校に行っていた。
毎日の、“行ってきます”と“いってらっしゃい”が、あまりにも重かった。
父は、そういう母のことが怖くて仕方なかったのかもしれない。好きだからこそ、直視できなかったのかもしれない。
それでも、わたしからしたらちゃんと母のことを見て、抱きしめてあげてほしかったけど、二人の関係は二人にしかわからないことだからと思っていた。今でも、そう思う。
その分、自分が母を支えなければと思っていた。
夜中に泣き崩れる母をずっとさすっていたことも、母に言われた言葉も、まだ忘れることはできない。
今だから、今だから思うのは、
自分は当時、まだ子供で、そんな重いもの背負う必要なんてなかったんだってこと。
学校ではたくさん笑ってたし、
楽しいこともたくさんあった。
だけど、なのか、だから、なのか、友達には話さなかった。
周りに話せる大人もいなかった。
それに、周りに助けを求められるだけの言葉を知らなかった。
自分の置かれている立場を、俯瞰できる力もなかった。
毎日、ただただ、母が今日も生きていてくれますようにと、祈りつづけ、母にかける言葉を探し回ることしかできなかった。
わたしが救われたのは、大学入学を機に上京できたことだと思う。
あのまま背負い続けていたら、どこかでつぶれていたのかもしれない。
幸い、母の病気は完治した。
あとになって聞いてみたら、わたしが高校生のときのことはすっぽり記憶が抜け落ちているらしい。
ほっとした。
あの時のことを覚えていなくて本当によかった。
覚えているのは自分だけでいいと思って過ごしてきた。
だけどそれから10年以上経って、わたしは、その背負ってきたものをひとつひとつことばにして、一緒におろしていこうと言ってくれる彼女と出会った。
そのおかげで、こうやってnoteにも書いて手放してみようと思えるまでになった。
当時、どうしたらよかったのかはまだわからない。
きっと大人の支えが必要だったとは思うけど、周りに知られたかったかと思うと、そこも難しい。話したいと思える大人がいたら、別だったのだろうか。
今、自分と同じような状況の子がいたとして、どうすることがいいのかも、やっぱりわからない。
だけど、わたしはやっぱり耐えられなかったんだと思う。ずっと地元にいるつもりだったわたしが、受験直前に東京行きを決めたのは、やっぱりもう、なにかが限界だったのかもしれない。
地元に窮屈な思いを抱えていたのは、自分のセクシュアリティのこともあるかもしれないし、何か新しい場所に行きたくなったのもあるかもしれないけどね。
あの時の行動力は未だに不思議で、自分の人生の中の本当に大きな転機になっている。
その時の自分が、耐えなくてよかったと思った。
自分の人生を生きたいと思えて、よかったと思った。
未だに、自分の中にこびりついて離れない記憶は残ってるから、まだまだ考え続けるんだと思うし、思い出し続けるんだと思うけど、こうやって、吐き出せる言葉は吐き出していこうと思う。