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きのう何食べた?

久しぶりの投稿。

今日は彼女と一緒に、劇場版『きのう何食べた?』を観てきたから、久しぶりに書きたくなった。
(※内容の詳細には触れていないです)

この日をずっと楽しみにしていて
最近は夕飯の時に録画していたドラマ版を見返していた。

なんなら、この作品に影響されて、最近は買ったもので済ませずに、ふたりで協力してご飯を作ったりしていた。

映画はもう、本当によかった。
とにかくよかった。

可愛いと愛おしいがぎゅうぎゅうに詰まっていた。

上映中、何度も彼女と顔を見合わせては、「愛おしい…!!」の顔をした。

ドラマの良さを何ひとつ欠かさず、
(映画を観ることでまたドラマのエピソードや会話の理解が深まったりもした)
だけど、ドラマよりも、もう一段踏み込んだエピソードだったようにも思う。


人生を重ねていくといろいろな問題が起こる。

その問題を、ふたりの温度と言葉で向き合ってたのが印象的だったし、その感覚が、たぶんちょうどよくて安心するんだと思う。

年齢を重ねて思うようになったのか、もともとの性格や好みの問題なのかは定かじゃないけど、
もう心を強く揺さぶられる作品はなかなか観られなくなってしまった。

たくさんたくさん涙する作品は、
どうしても、自分の大切な、だけどいなくなってしまった誰かを考えてしまったりする。

相手を試したり、意図的に傷つけたり、
そういうのも、観られなくなってしまった。

『きのう何食べた?』にも、
涙があふれるシーンはあるし、考えさせられるシーンもある。生きていれば誰かを傷つけてしまうことがあるように、この作品の中でも、うまくいかないことはある。

だけど、それを大げさに悲しむでもなく、
何もしないわけでもなく、
ふたりが、ふたりの言葉で、思いを伝え合っていく。

そしてふたり以外の影響をたくさん受けながら、
ふたりの生活が進んでいく。

同性だから、ではないと思う。
自分にとって大切な人ができたときに、家族や友達を変わらずに大切にできるかというと、それは案外簡単なことじゃないんだと、20代の時の恋愛を思い出すと痛感する。

恋人が、自分の大切な人を大切にしてくれるかだってわからない。
自分の“大切にする”と相手のそれとは、思っていたのとまったく違うことだってある。

だから、シロさんとケンジが、家族や周りの人とも一緒に生活していることが、穏やかな時間を過ごしていることが、本当に奇跡のようにも思える。

それがなんとも愛おしくて、ふたりがその幸せを噛みしめているとき、涙が溢れそうになる。

そしてやっぱり、同性同士だからこそ出会う問題もある。

わたしたちは女性同士のカップルだけど、
女性のふたりと男性のふたりでもまた、違うこともあるんだろう。

不思議と、シロさんとケンジの声で語られると、
すーっと自分の中に入ってくる。

この問題は怒っていいんだ、
悲しんでいいんだ、
異性同士だったら、そうじゃなかったはずなのに

それを、ふたりの優しい言葉と温度で伝えてくれる。


同性同士の問題ってなると急に大きな話になりがちだけど、同性異性にかかわらず、誰がどんな状況で、そして誰がそばにいて出会うかで、問題の受け取り方は変わってくる。

例えば、他人の痛みを勝手にはかれないように、同性愛者同士であっても、わからないことはたくさんある。

この作品のなにより安心できることは、
あくまでシロさんとケンジ、ふたりの物語だってことなんだと思う。

決めつけられず、押し付けられず、
ふたりの生活がすぐそこの、手の届くような場所にある。

だから安心して、自分の過去にも浸れるし、隣に座る彼女を観ながら、自分だったら、自分たちだったらどうしようかと考えられる。


そしてやっぱり、ふたりが可愛い。
なんと言っても可愛い。

また観に行きたくなってるし、
また続編があるといいなと待ち遠しくなってしまう。

今日は、好きなシーンの話でもしながら眠りにつきたいね。

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