「彼は生涯のパートナーとして貴女を選んだ。しかし彼は、
決して貴女と同じ思考を持っているわけではない。」
これは、私が結婚式を挙げたときに神父から言われたことばだ。
パイプオルガンが奏でる結婚行進曲。
こころの中で緊張と高揚がひしめき合う中、チャペルに入場する少し前に、扉の前で、神父は私にそっと告げたのだった。
◆
今日も今日とて、娘の機嫌をとりながら夕飯を作った。
焼くだけ簡単!とシールの張られた特売の味付けチキンをフライパンに放り込み、作り置きした味噌汁を電子レンジで温める。千切りにした状態で売っているミックス野菜をワシ掴みして皿に盛る。
嗚呼 忘れてはならない、娘の離乳食も、週末に作り置きしていた冷凍野菜を熱すぎず冷たすぎない適温にもどす。赤ちゃんだから分からないとはいえ、食事というものを視覚的に楽しんでほしいと思うから気合でベビー食器に盛り付ける。
帰宅した夫と娘と囲む食卓。
美味しいという言葉のあと、夫が「がんばらなくていいよ、夕飯」と続けた。
「全然がんばってないよ、適当だよ?」
「いや、お弁当なりテイクアウトサービスなり、使っていいよ。」
言葉の真意が分からず、「味が濃かった?」「品数足りない?」と聞き返すが、夫は首を横に振る。
「分かった、私そんなに疲れた顔してる?」
「…そうじゃない、手作りにこだわらないよ。」
こんなにやさしい夫はそう滅多にいないだろうという自覚はある。少なくとも私の周りにはいなかった。実父にいたってはスーパーの弁当が食卓に並んだ日には食べる前からわざわざ文句を口にすることも珍しくなかった。
そして、かつて私が一番忙しく働いていたとき、丸2か月ほど会社にほぼ泊まり込みで働き、食事は60日間ずっとコンビニだった。不思議なもので、コンビニごはんが30日目を過ぎたころから、どれを食べてもすべて同じ味に感じていたから過労は怖い。ロクに料理をしたこともないくせに「今度の休みの日はごはんを作ろう」と休日タスクに自炊を掲げるほどだった。
いつだって、手作りのごはんというのは私なりの「ゆたかさ」だった。
それを、夫が「作らなくていい」という。
「お弁当なら、容易に品数を増やせて、私も夕方からバタバタすることもなくて、一石二鳥じゃない?」と。
夫は私の料理に口出ししているのではなく、私のワンオペ育児が少しでも楽になる代替案を出してくれているのだ。
私は決して料理が好きではないが、それでも1日1食くらいは手作りで作りたい。既製品のお弁当よりも美味しく作れる自信はないし、品数も少ないし、コスパがいいわけでもないだろうが、作りたい。そのほうがゆたかな気がするから。
夫がどう言ってくれたら私の気が済んだのか、娘が寝たあとにひとり湯舟に浸かりながら小一時間考えた。
「美味しいよ、明日からも作ってね」
言われずとも作るのだが、このプレッシャーはきつい。
「美味しいよ、でも無理しないでね」
無理していないかといえば無理はしているが、私が好きで無理をしている。
「美味しいよ、手抜きでいいよ」
これ以上手を抜くと夕飯として成立しないから心配は要らない。
…あまのじゃくな自分に呆れる。
「美味しいよ。お弁当に頼ってくれてもいいけど、無理してでも作ってくれることに愛情を感じるよ」
まさかと思われるかもしれないが、意外とこれならしっくりくるかもしれない、と思った。
だが、ここで表題の神父のことばである。
「彼は生涯のパートナーとして貴女を選んだ。
しかし、彼は決して貴女と同じ思考を持っているわけではない。」
私にとって手作りの夕飯というものがゆたかさの象徴であるがゆえに、どんなに手抜きであっても手作りで食事を作ったことを全面的に肯定してほしい、と求めることは、違うのだ。
夫にとってのゆたかさとは、お弁当を買うことで私もゆっくり過ごし、ふたりとも栄養価の高い食事をとること、なのだ。
私たちの価値観が完全なイコールになることはない。
まさかこんなことで神父がフラッシュバックするとは夢にも思わなかった。“湯舟テンション”もあるかもしれない。だが、このことばと照らしたことで、こころの中でバラバラになっていた要素がようやくストンと落ち着いたのである。
ちなみに神父のことばはこう続く。
「だから、彼も貴女も、自分の価値観を相手に押し付けてはなりません。意見が異なったときは時間を惜しまずに話し合いなさい。」と。
結婚式がはじまる5分前に、チャペルの扉の前でこんな風に諭してくれることは常なのだろうか。
…分からないが、夫からの嫌みのない「ラクしていいよ」を受け止め、明日はちょっといいフレンチをテイクアウトで注文しようと思う。
あしたもいい日になりますように。
2020/05/28 こさいたろ