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POPカルチャーは誰のものか

●POPカルチャーで育った若者がその文化に同一化する時にある、一種のジレンマについての話です。

私でいえばHIPHOPや少女漫画やクラッシック映画などがそれにあたります。

日本人の少年が黒人ラッパーの真似をしても様になることはないですし、ましてや少女漫画の世界感と自分との乖離は甚だしく、性別も含め何もかもが違いますし。マイノリティーな自己をエンパワメントして世界を渡り歩く力をくれたPOPカルチャーに忠誠を誓いたかったはずなのに、結局どこまで行ってもぬぐい切れない外様な私というか…。

私は高校3年の夏休みにアメリカの西海岸にホームステイしました。
アメリカのアートカレッジに憧れがあったからです。
しかしHIPHOPも映画も大好きだった夢見がちな少年の見た現実は少々酷で、言葉もろくに喋られないアジア人の少年が学べたことといえば、世界はそんなに甘くないよということくらいのものでした。

閑話休題

XGというアーティストがいます。女性7人組のアイドルユニットなのですが、彼女たちは日本育ちの日本人でありながら、avex出資で韓国の音楽シーンをメインに活動していて、プロデューサーは韓国人(日本人とのハーフで元男性アイドル)、歌詞は全て英語、サウンドはK-POP(R&BやRAP等のブラックミュージックルーツの)ではあるのですがワールドワイドなマーケットを意識した作りが成功し、彼女たちは今、日本を皮切りに始まった世界ツアーの真っ最中です。

彼女たちのアティチュードはX-popといって様々なカルチャーをミックスして彼女たちなりのサウンドやファッションをグローバルに力強く発信していこう、という感じ(百聞は一見に如かずなのでこちらをどうぞ↓)。

最新MV。
「4の5のぬかして、あんまアタイら怒らせんなよ」
みたいなvibeですかね。イェーって感じです。

私はもちろんXGのファンなのですが、同様にある一人のXGファンが上げたリアクション動画に結構心を動かされたりもしました。

この動画はよっぽど暇じゃない限りは見なくていいです。XGのファンダムのこととかこれまでの作品等々見てないと議論の意味が分かりかねるというか、語ってることがハイコンテクストなので。じゃあ彼女が何について語っているかというのはR&Bの歴史、ひいてはブラックミュージックの本質のことだと思います。

アメリカの黒人差別の歴史、彼らの抑圧の歴史の中から生まれてきた音楽。彼らによる一番平和的なプロテストとして存在している音楽。合唱やゴスペルが生活と地続きにあって、その中で発展してきたものがR&Bや或いはRAPになったのだということ。

XGがそれらのスタイルを上手に模倣するにしても、今までやったカバーと同様にレジェンド(MJとかTLC)からするのではなく、現役ライバルのFLOの楽曲からのカバーで、しかもそれがブラックミュージックのアウトサイダーなアジア人ギャルがそこそこ上手に歌えました程度のレベルでのそれ、ということ。そこに一体何の驚きがあるんでしょうか…ってことをカナダギャルはとても言葉を選んで日本人XGファンに伝えようとしていました。

このリアクション動画のアメリカ出身のカナダギャル(多分日系アメリカ人
)もXGにかなりシンパシーを感じつつ、彼女たちの出自やスタイルに対して多少のジレンマがあるみたいで、そのことに私は勝手に共感をしてしまったみたいです。

閑話休題2

確か2009年の漫画学会のシンポジウムで、フランス漫画(BD:ベーデー)の作家を交えたティーチインがあり、その檀上での話。「MANGAブームは一時の流行でしかなく今は落ち着初めている、これからは古典回帰するんじゃない?」みたいな感じの発言がベテランBD作家からあった時、客席にいた若手研究者(確か魚喃キリコの研究をしているドイツ人の女性漫画家)が挙手して立ち上がり「我々は『セーラームーン』や『ナルト』で育ちました、これはただのブームだったで切り捨てられるものではない、『セーラームーン』は我々のものなんです。」と半べそかいて震えながら発言していて、私は彼女のその勇気に心の中で静かに拍手を送った、ということがありました。

そしてその後、疑いもなく『セーラームーン』や『ナルト』は我々のモノだと思っていた私は反省し、日本人が日本人に向けて描いたものは日本人じゃないと分からないみたいな本質主義的な思考に無意識のうちに陥っていた自分を恥じたのでした。

そんなことある?そのドイツ人変なこと言っちゃってるんじゃない?とお思いの諸氏に問いたい。

私はその頃京都に住んでおり、少女漫画家を目指すよく分からん男としてドクターやポスドクが集う少女漫画の研究会に何故かよく顔を出しており、ある若手の発表会での打ち上げで盛り上がる輪の中に居る少女漫画研究者の某大家に詰め寄りました。

あなた方は少女(女性)達が如何に少女漫画にエンパワメントされたかとは声高に言うけれど、少女漫画にエンパワメントされたのを少女(女性)に限定する必要はどこにもないし、男性読者を恣意的にオミットしていませんか?という問いを投げた時に「あなたは男性だからしょうがないわ。」と、さらっと議論からパージされてめちゃくちゃショックを受けた思い出があります。

少女漫画は女性しか分からないなんてことはないはずです。漫画やポップカルチャーが勝ち得た普遍性とはそんな生易しいものではない。容易に時空を超えて人の心を打つ、そういうパワーに満ちたものだと私は理解しています(半べそ)。

我々にしか分からないというエリート主義の先にあるのは排他的な政治性だけです。性別や出身など一見動かしようもないものに見える物事をアイデンティティーにしてそこからものを見たら目が曇ってしまいます。

ポップカルチャーが描いたものは、決して中心にはいれなかった周縁の人間達の物語だったはずで、彼(女)らはマイノリティーであることをバネにしてマジョリティの持つ排他性と戦ったのです。そのことに我々は心を打たれその物語を内面化したはずなのに…世界とは皮肉なものですね。

だからあのドイツ人女性研究者の発言に私は少なからず心を打たれ、それと似た気持ちを日系アメリカ人カナダギャルのリアクション動画で思い出したのでした。

閑話休題3(多い!)

事ここに至っては、もうPOPカルチャーが誰のものであるのかはもはやどうでもよいのですが、しかし連帯には物語が必要です。宗教だったり国家だったりも単なる物語です(もちろんファンダムも)。じゃあ我々の物語とは何なのか、我々とは一体誰のことなのかということが単純に考えにくくなってしまっている、そのことが問題として残ってしまいました。

風土が育んだ文化やそのルーツについて考えることは自らが他人と共に生きる上で必要なことです。自らが描いた物語を、安易な本質主義や排他的な線引きに利用してはいけないし、見知らぬうちにそれらに加担させられないように、流されずに踏みとどまることが肝要ではないのかと、私が言いたいのはこれだけなのかもしれません。

そういう世界にならないように。

寛容が肝要!YOYO!!

(ちなみにトップの画像はアル中映画の最高峰『こわれゆく女』のジーナ・ローランズの飲酒シーンからでした)




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