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#00-2 鉄道と私〜残りの人生のテーマを考える〜

「国鉄」。一昔前の鉄道は国のものであり、こう呼ばれていた。
昭和末期以降に生を受けた鉄道マニアからすれば、憧れの言葉、世界観である。
個人的には人間臭く、鉄道マンはサービスはさておき、プライドを持って輸送の使命を担っていた。
物心ついた年にもよるが、幸い私の頃はJRが背伸びをして、なんとか国鉄の世界観から脱却しようとしていた頃だ。
古い車両を塗り替えたり、内装を綺麗にしたり。
でもどこか古臭い感はしっかり残っていて、それが地方になれば顕著にあった。
その奇跡的に残っていた世界観、雰囲気を味わいたくて、残っていたその“ガンダーラ”というユートピアを目指すのだった。

幼稚園の行き帰りに母親と見た“古い電車”。
冬の朝は寒いのも気にせず、朝少し早く出て、顔や足回りにこってり雪を着けた寝台特急を見る。

「雪が着いてる!」
「ホントだねぇ~!すごいねぇ~!」
「なんで雪が着いてるの?」
「寒いから融けないんだよ。」
「そうなんだ!!」

と母親と話しながら、憧れた存在を見るのが日課だった幼少期。
小学校に入り、少し野球に没頭し鉄道への興味は薄れたかと思えば、
自分には向かないことがわかって、再び鉄道に戻ってくる。

中学になって行動範囲が広がり、飽くなき世界観の追求、もとい定期的な補給と呼ぶに近いそれは、以前できなかったことにフォーカスされる。
時刻表の先へ先へと目をやり、どんどん先に進んでいくと九州が見えてくる。といった具合に、見たことないところはどんなところなのか。
どんな車両があるのか、それが楽しみで旅をし始めた。

一人っ子の私は、親からの愛情をたっぷり受けて育った幸せ者だが、親からすれば心配でならなかっただろう。
自分が親になったときに、同じことをしてあげられるかと考えるほど、好きなだけ好きな鉄道を追いかけた。

特急に乗りたい。いつも降りる駅と違うところまで乗ってみたい。
寝台特急に乗ってみたい。いつも見るだけだったあの列車に乗って知らない駅まで行ってやるんだ。

こんな欲望を胸に秘め、各地を旅する中で様々な出会い、体験をしたし、旅の出会いの中でこころが動き、旅をする自分こそ自分の代名詞でありたいと思うようになった。

***

中学2年の冬。冬期講習を終えた少年の私は、急いで帰って支度をする。友達と帰るのもそっちのけ。
走って帰る。それもそうだ。寝台特急に乗るのだから。

列車は大宮22:50発の寝台特急はくつる。
塾からの疲れを持っていた私は寝台に乗り、宇都宮を過ぎたあたりで眠り始める。
東北本線の高規格線区はレールのつなぎ目の音もせず、さーっと静かに走り続けた。

朝になり目覚め、カーテンを開けると真っ白な世界。
窓ガラスは冷たく、冷やっこい空気を感じる。

「もう青森なんだ!」

と一気に疲れも何も吹っ飛び、青森という土地を考える。
ねぶたがあって、りんごが有名で、青函連絡船があって昔は船で北海道へ行っていたんだ。
青函トンネルってどんなところだろう?
ああ、乗ってみたい。今回は乗れないけど、乗ってみたい。

現地を楽しめばいいのに、その先の憧れへと気持ちが向いている。

青森に着けば、関東での重装備は少しくらい役に立つくらいのもので、本気の冬の寒さを感じる。
あまりの寒さだが、暖を取る場所も無く、小銭で駅の立ちそばを食べた。
どうってこと無いかき揚げそばなのだけど、旅の中ではごちそうだ。
濃い味に感じるのは東北特有のつゆなのか、それとも勝手な想像か。
そばのつゆをしっかり飲み干し、また鉄道への欲求を満たし、来る列車来る列車を撮ったのだった。

***

大学4年。九州へ行く寝台特急が終焉を迎えた。
最後まで残っていたのは「富士・はやぶさ」。
南の玄関は東京駅、北の玄関は上野駅。
実家が北陸だったこともあり、南の寝台特急には縁が無かったものの、品川に行けばヒルネをしている寝台特急を見て憧れを持っていたのであった。
行きは「はやぶさ」が取れた。熊本までの長い旅行。
当時仲が悪かった親父が、見送りに行ってやるよ。と東京駅までついて来た。思春期の私からすれば、着いてくんなよ、親父。といった具合だが、なぜかその時は承諾したのだった。

「品川で手を振ってるからな。」と言って先に行く親父。
なんだか少し楽しみな私。

東京を出て、新橋を駆け抜け、そこそこの速度で品川を通りすぎる。
一瞬にして過ぎていく駅の情景の中、親父が笑顔で手を振っている。気を付けて行けよ。と見送る親父。
今でもそれが印象に残る。

そこからは自分だけの世界。
向かい側の寝台の人との会話。門司から指定券で乗ってきた人との談笑。
その人とは最近は疎遠になってしまったが、博多に行くことがあれば連絡して、ごちそうになって飲むこともあった。
今あの人は元気だろうか。

帰りは富士が取れた。
はやぶさを撮ってから特急で追いかけると、同じ列車に乗れるというゆっくりな機関車特急あるあるである。

今度は向かい側にはおじさんたちが酒盛りをしていた。
「お兄ちゃんは東京に帰るのかい?」
「はい。富士・ぶさが無くなるって聞いて、撮って乗りに来ました!」
「今はいくつだい?」
「大学4年で今年卒業なんですよ。」
「じゃあお酒飲む?俺らは新聞社のOBで同じく無くなるっていうから乗りに来てね。」
「ご一緒して良ければぜひ!!」
「芋焼酎でいい?さぁさぁ、乾杯!! おお!お兄ちゃんいける口だね!!」

酒盛りに参加して、昔はよかったという話とか、自分は鉄道が好きで鉄道会社に入りたいとか、いつまでも飲んで話す勢いでその時間は流れていった。
先輩方の話は面白く、いつまでもいつまでも聞いていたい話だったが、

「お客様、そろそろ消灯になりますのでお静かにお願いします。」

修学旅行と同じく消灯時間である。

「いやぁ、よく飲んだね!解散解散!」

と気持ちよく終わり、翌朝は何事も無かったかのように解散する。

「お兄ちゃんありがとね!社会人になって頑張れよ!」

社会人の大先輩からエールをもらった。何か社会人の襷をつないだ感覚だった。
今でも一つ一つを覚えているし、こうして話していてこころがポカポカしてくる。

***

今はもうこうした旅ができる列車は無くなってしまった。
唯一残る寝台特急は個室になり、旅の手段は金銭的な価値にフォーカスされ、深夜バスが台頭し、日常にあるこうした人間臭い環境は無くなってしまった。
もうあの時のように、隣り合った見知らぬ人と意気投合して話したり、世代間で繋がったり、まるでタイムスリップのような時間と場所の移動は、金持ちの道楽のようなツアー列車しか無くなってしまった。

ただ、まだ何の因果か車両は奇跡的に残っている。
今この車両たちが残れば、まだこの世界観を残すことができ、後世に同じもので残すことができるはずだ。

何かできないだろうか。全国と言わずともどこかで走っている世界を作ることはできないか。
秋田と尾久にある寝台車、食堂車を残したい。走らせたい。

そして、私のこどもにも今のマニアたちも楽しませ、せっかくならその土地で楽しんでもらいたい。
ブルートレインがあればそれができるはずだ。

でもこのままでは無くなってしまう。まずは残すことを始めなければ。
あの時手を振った親父も乗せてやりたいし、母親にも自分の家族にも同じ体験をさせてあげたい。

今を逃してはこの先何も残らなくなる。ただ、鉄道会社には残すことはできない。
標準化、効率化、株主への還元を考えれば至極真っ当であり、わざわざ残すことは考えられない。

ではどうするべきか。
我々マニアたちがなんとかするしかないのである。
マナーの問題もあり悩ましいのが事実ではあるが、失うものの方が大きい。

車両を保有する会社を作ろう!協力してくれる会社を見つけ、そして自分たちが走らせよう!
旅行会社でもなんでもいい!旅の選択肢に残せる環境を作ろう!

これがきっと自分のやるべきことだ!残りの人生、40年あるかないか。
日本がどうなっているかもわからないが、なんだかやらねばならぬ気がするのだ。

鉄道の旅で失った日本の良さを取り戻す。
これが私の残りの人生のテーマだ。

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