ひとつの商売をやってみて
いま、コーヒー屋の商売をしている。
実のとこ、散発的なイベント営業なので正業とは言えない。
この文章は、曲がりなりにも商売を始めてみたことで思った、ひとつのことについて書いている。想定読者は、将来読み返すかもしれない自分だ。
コーヒー屋をやってみた。
地元のコーヒー会社が作っているコーヒーがとても美味しいのに、ネットか都内の百貨店でしか買えないのがもったいないと思っていたら、たまたまそのコーヒーを卸してもらえることになったのだ。
まずは店頭販売として、知り合いのパン屋の店先と山の中の乗馬クラブで、持ち帰りのドリンクとコーヒー豆を売った。
そして今は、普段使われていない店舗を間借りしてやっている。ちょっとした飲食も出来るようにもした。
最初、どういう店にするか決める時に、おもしろいことが起きた。
露店のような売り方でも、間に合わせの安っぽい作りはいやでしっかりとしたい、とは思ったが、イメージは漠然としていた。でも、コンセプトが決まったとたん、何がその店に合うか合わないかがはっきり分かるようになったのだ。
そこからは早かった。宣伝用のSNS投稿をどうするかも、店で使う物も、店に立つ時の衣装もすんなり決めることができた。
店がスタートしてからは、いかに余分なものを削ぐことが大事だと思うようになった。自分の良いと思うもの・ことを全て並べても、他人には何を訴えられているのか分かりにくくなるのだろう。広く浅く好きなものが多い自分には、とても難しい。まだまだ削ぐことが出来ると思う。
この、コンセプトが決まってからと、それから今にいたる感覚は、昔何かで読んだアメリカ黒人作家(女性だが名前を忘れた)が自分の作品について語ったことに近いと思った。
彼女曰く、自分が物語を考えて作っているのではなく、登場人物が目の前に現れて勝手に動き出し、物語が始まっていく。それを自分が必死に描写しているのだと言っていた。
分かる。
コンセプトが動きを与えたのだ。動き出したらあとはそれに沿うだけ。物語がおかしな方向に行かないように、余分なものを見極める必要はある。削いで物語が曇らないように。
この感覚を忘れないように書いた。
これは余分なことではあるが、もう一つ書きながら気づいたことがある。
物語というものは、いつか終わらせなければならない。